先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。
今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。
「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。
このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。
今回は、「佐賀城」(佐賀県佐賀市城内)の「番所」をお届けします。「日本100名城」に選定されています。
「鍋島家」は、九州を「島津家」と「大友家」と共に三分していた「龍造寺家」の家老を務めていましたが、「龍造寺家」の後継ぎが暗寓であったので「直茂」は「龍造寺家」一門から領国政治の委任を受けるという変則的な形となりました。そして、「直茂」は、「豊臣秀吉」のフォローで「島津家」を追い払う策をとります。
その後、「秀吉」は「直茂」の軍才能を高く評価し、朝鮮出兵でも「龍造寺家」に代わって活躍したことから、出兵後の肥前国は「鍋島家」に任せられ豊臣政権の一躍を担うことになります。
「関ケ原の合戦」では、「直茂」自身は、「徳川家康」と「石田三成」両方を天秤にかけて連絡をとりあいながら、息子「勝茂」には西軍に参加させますが、「家康」が素早く優位に進撃しているという情報を得て、東軍へ鞍替えして西軍の拠点であった「立花宗茂」の「柳川城」を攻めました。その結果、本領を安堵されましたので、「家康」に恭順の意を示すために、「勝茂」の弟を江戸に人質として置くことで幕府から好感を得ました。
「龍造寺家」を主家として立てることを幕府に申告しましたが、「龍造寺家」を継ぐ者が相次いで亡くなったことから、「勝茂」がその家督を継ぐことを幕府から承認され、その後は幕末まで「鍋島家」がこの地を治めることとなります。
「佐賀城」の立地と縄張りは、「本丸」と「二の丸」を「三の丸」や「西の丸」が「梯郭式」に取込む縄張りで、広大な水堀で囲う「平城」です。「三の丸」は「本丸・二の丸」から堀を隔てて西側に位置し、更にその西側には「西の丸」が置かれました。「三の丸」「西の丸」の北側には重臣屋敷が拡がっていました。
縄張り図(赤丸は下記説明の「番所」位置、図はPHP「名城を歩く」から) ↓
ありし日の本丸絵(赤丸は下記説明の「番所」位置、図はPHP「名城を歩く」から) ↓
重文「鯱の門」の内側に門から繋がった状態の小さな「番所」が設けられています。
屋根は「切妻造り」で「本瓦葺き」、「下見板張り」で「真壁造り」の外壁です。門側には「下見板張り」の上1/3くらいの「竪格子窓」が備わっています。
また「鯱の門」の内側には「門番」の控室があるようで、表側は「竪格子窓」を設けて内側は格子戸の引きドアが見えます。
重文「鯱の門」の内側に門から繋がった状態の小さな「番所」 ↓
重文「鯱の門」の内側に繋がった状態の小さな「番所」 ↓
重文「鯱の門」の内側に繋がった状態の小さな「番所」 ↓
重文「鯱の門」の内側に繋がった状態の小さな「番所」 ↓
重文「鯱の門」の内側に繋がった状態の小さな「番所」 ↓
重文「鯱の門」正面の門扉両側にも「竪格子窓」が見える ↓
重文「鯱の門」の門扉両側には「門番」の控室か? ↓
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