先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。
今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。
「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。
このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。
今回は、「大洲城」(愛媛県大洲市大洲)の「番所」をお届けします。「日本100名城」の選定されています。
大洲には、鎌倉時代末期の伊予守護職「宇都宮家」が築いたお城があり約200年間居城しました。
しかし「宇都宮家」は、「長宗我部元親」に与した家老「大野家」に城を乗っ取られますが、今度は「大野家」が「小早川隆景」に滅ぼされ、その後「戸田家」を経て「関ケ原の合戦」で功績をあげた「藤堂高虎」が今治に築城を進めて、「大洲城」には養子の「藤堂高吉」を城代として置きます。
1609年に「脇坂安治」が入城して城下の整備を押し進めていましたので、1617年に「加藤貞泰」が入城した時点では既に近世城郭が出来上がっていました。それ以降は、「加藤家」が代々続いて、幕末・維新まで統治を行います。
「大洲城」の立地と縄張りは、「肘川(ひじがわ)」を背後の守りとした高さ20mの「地蔵ケ嶽」を利用した後堅固の縄張りで、梯郭式の平山城です。
そして、「本丸」と「二の丸」を守るようにして「内堀」が取り巻き、その外側と「肘川」の東側に沿って「三の丸」を配置して、城下町が造られました。
「本丸」は、上段と下段に別れ、どちらも周囲を「多門櫓」で結ばれて厳重な守りを誇っていました。特に下段には井戸があり「井戸丸」とも呼ばれていました。
「二の丸」は、「本丸」の北側から西側、南側にかけて取り巻き、特に北側は「北の丸」と呼び「水手櫓」等置かれて川からの防備を図り、西側は「中の丸」とも呼んで「奥御殿」が置かれ、その南側は藩政の中心となる「藩庁」としての「表御殿」が配置されていました。更に、南東にかけては、「馬屋」「台所」等の倉庫群が置かれました。
縄張り図(赤丸は下記「番所」の位置) ↓
現在「番所」は、「二の丸(中の丸)」から「本丸下段」へ登る坂道の手前に復興「御門番長屋」が建ちます。ただ、当番所は、「松山城」と同じ様に内部は「トイレ」として使用されているのが残念です。
屋根は「切妻造り」の「本瓦葺き」で、絵図の通り「白漆喰総塗籠め」になっています。外観が白漆喰の番所は珍しいと思います。門番長屋と名前が付いていますが、この中に門番が控えていたようです。
復興「御門番長屋」(内部は「トイレ」として使用) ↓
古城絵図「御門番長屋」 ↓
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