先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。
今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。
「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。
このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。
今回は、「姫路城」(兵庫県姫路市)の「番所」をお届けします。「世界遺産」であり、「日本100名城」に指定されています。
1333年に「赤松則村」が砦を築いたのが最初といわれ、その後「山名持豊」が本格的な城に改修、「赤松家」の一族である「小寺家」の属城となり、その家臣であった「黒田家」が城代となります。
「羽柴秀吉」が中国攻めの際に「黒田官兵衛」が秀吉に「姫路城」を献上し、「秀吉」によって望楼型の三重天守が「姫山」に建てられました。「秀吉」の全国統一時には、秀吉の縁戚である「木下家定」が城主になりました。
「関ケ原の合戦」後、「徳川家康」が西国外様大名の抑えとして「姫路城」に配置したのが、「家康」の女婿(むすめむこ)である「池田輝政」でした。
「姫路城」は、西の外様大名を監視する役割を担っていましたので、その後は、譜代・親藩(御家門)の名門大名が入城します。
「家康」の外孫である「松平忠明(ただあきら、奥平)」を皮切りに、「越前松平家」(「松平直矩」が幼少だったので移封)の次に「榊原家」が入城→成人になった「越前松平直矩」が再入封→「本多家」→「榊原家」→「越前松平家」と目まぐるしく替わり、1749年に「酒井家」の入城後はやっと藩主が定着しました。
「姫路城」の立地と縄張りは、「姫山」(東側)と「鷺(さぎ)山」(西側)という小丘陵を中心に築かれた「平山城」です。「姫山」最高峰に「天守群」を建てて、「本丸」から「二の丸」等が階段状に配される「渦郭式」の縄張りです。
「天守群」南側には「本丸=備前丸」を置き、少し下には「井戸曲輪」「腹切り曲輪」そして「上山里曲輪」「乾曲輪」などを配備し、「三国濠」を中心に「二の丸」が拡がります。「三国濠」の西側の「鷺山」は「西の丸」となっています。
「三国濠」の南側にある「菱の門」は、以上の曲輪に出入りできる門となります。その南側の平坦地には、藩主が住む「三の丸(御居城)」や藩政を執り行う「三の丸(向御屋敷)」「御作事所」が置かれていました。そして、「三の丸」の南端に「大手門」が置かれ、以上の曲輪全体が「内曲輪」と呼ばれていて、その周囲を非常に幅広の「内堀」で取り巻き防御しています。
更に「内曲輪」の北・東・南側を「中曲輪」が取巻き侍屋敷が置かれ、総構えとなっている「外曲輪」とは12の門が構えていました。
惣構えの縄張り図(「名城を歩く」PHPより) ↓
以上の様に、「姫路城」の広大な敷地内、特に「菱の門」内には約80棟の城郭建造物が建ち並び、国宝、重要文化財に指定されていて、今回の「番所」はその中の1建造物しかありませんが、紹介したいと思います。
「菱の門」内の現在絵図(赤丸は下記「番所」の位置、「名城を歩く」PHPより) ↓
場所は「ちの門」と」「井楼櫓」の間に建つ「番所」で、曲輪間を管理・監視する「ちの門」の脇に置かれた「番所」です。これらはいずれも重要文化財に指定されています。
入口と横格子窓がある小さなスペースですので2〜3名が常駐していて曲輪間の出入をチェックしていたのでしょう。
ただこの場所は、現在「井楼櫓」より北側が通行止めとなっていて、特別公開日しか近くで見ることが出来ません。
重文「ちの門」の脇に置かれた重文「番所」 ↓
重文「ちの門」の脇に置かれた重文「番所」 ↓
突当りが重文「番所」(右は、重文「井楼櫓」) ↓
重文「ちの門」(潜って左側に「番所」) ↓
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