先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「福知山城」(京都府福知山市内記)の「番所」をお届けします。「続100日本名城」に選定されています。

 

前身は、室町時代に「塩見頼勝」が築いた「横山城」でしたが、明智光秀」が「塩見家」を攻めて当城を手に入れ、その後お城を拡張して「福知山城」と改称しました。

 

平定後は、「光秀」の娘婿である「明智秀満」等が入城しましたが、「関ケ原の合戦」後は「有馬豊氏」が城主となり、ほぼ現在のような縄張りと建造物配置がなされたようです。

 

その後、「岡部家」「稲葉家」と替わりますが、「稲葉紀通」の時には領民への重税や殺害、隣の城主だった「京極家」にも争いを仕掛けるなど大変な悪政をしたことから改易となります。そして「京極家」「松平家」と城主が替わりましたが、1669年に「朽木稙昌(くつきたねまさ)」が入城した後は、幕末・維新まで「朽木家」が統治します。

 

福知山城」の立地と縄張りですが、東側に流れる「由良川」や「土師川」の自然要害を背に小高い丘の上に「本丸」を置き、西側に向けて「二の丸」「三の丸(伯耆丸)」「内記丸」を配置する「連郭式平山城」になっています。

 

また、その北側に配置された「左門丸」には「対面所」が、それに続いて「中門」「大手門」が配備され、城下町は北側に拡がっていました。

 

城下今昔地図(赤丸は、元の「番所」位置から移築先の現在位置、下が北方向) ↓

 

「本丸」西側には、「二の丸」北西に建っていた「銅門(あかがねもん)番所」が移築されていて、「本丸」跡に復元された「天守群」と共に、お城の様相を見応えある姿に寄与しています。

 

元々は「銅門」脇に置かれていた「番所」でしたが、1916年に「天守台」上に移築され、さらに1985年に「天守・小天守」の復元に伴い、「本丸」跡西側に移築されました。

 

真ん中に取調室を置き、両端は東側に向けて出っ張った部屋を設けていますので、平面では「コ」の字型になっています。

屋根は出張った部分が「入母屋造り」で「本瓦葺き」、外壁は柱が見える「真壁造り」になっています。

 

また「伯耆丸」跡から望んだ写真は、正面に「銅門番所」の左右対称の美しい姿を見ることが出来ます。

 

「本丸」西端に移築された「銅門番所」 ↓

「本丸」西端に移築された「銅門番所」 ↓

「本丸」西端に移築された「銅門番所」 ↓

「本丸」西端に移築された「銅門番所」(「大天守」から見下ろす) ↓

「本丸」西端に移築された「銅門番所」(「二の丸」から見上げる) ↓

「本丸」西端に移築された「銅門番所」と「天守群」(「伯耆丸」から望む) ↓

「銅門」跡(この脇に「銅門番所」があった) ↓

 

 

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