先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「岸和田城」(大阪府岸和田市)の「番所」をお届けします。「続日本100名城」に指定されています。

 

「岸和田」は、且つて城館だけの「岸和田家」の「岸和田古城」があり、「三好長慶」の支配下になると「松浦家」が城主となります。

 

その後「織田家」の支配下を経て、「羽柴秀吉」による根来寺と雑賀衆攻めの最前線として「中村一氏」が入城します。そして「秀吉」全国統一後は「小出秀政」が入って本格的な近世城郭へ改修していき、その中で五重天守も建築されます。

 

「小出家」の後に入った「松平康重」は城下町の沿岸部に石垣を築くなどの城下町整備を行います。1640年に「松平家」の後を継いだのが「岡部宣勝(のぶかつ)」で、幕府に対する異心があると言われた「徳川頼宜」の「紀州藩」を監視する目的でお城も大規模な改修が行われています。

 

その後は幕末・維新まで「岡部家」が代々続きますが、1827年まで存在していた五重天守は落雷で焼失してしまいます。

 

岸和田城」の立地と縄張りは、海に近い平地に堀を設けた中に「本丸」と「二の丸」が並列に並び、その周囲を「三の丸」が囲い、海側には城下と紀州街道を取り込んだ「町曲輪」を設けています。「町曲輪」の南北の入口には「北大手門」「西大手門」を築いて城内への監視に備えています。

 

上の縄張り絵図では、「二の丸」から「本丸」に入る虎口に「土橋」を渡った所に「櫓門」が見え、現在は復興「本丸表門」が建っていますが、その内側には「番所」と思われるスペースが設けられています。

 

障子窓の様に見えますが、以前はここが「天守」が建つ「本丸」の入口発券所になっていたのかもしれません。

 

復興「本丸表門」の内側には「番所」と思われるスペース ↓

復興「本丸表門」の内側には「番所」と思われるスペース(「本丸」側から) ↓

復興「本丸表門」(「本丸」側から) ↓

復興「本丸表門」(「二の丸」側から) ↓

 

 

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