先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「金沢城」(石川県金沢市丸の内)の「番所」をお届けします。お城は「日本100名城」に指定されています。

 

「金沢城」の前身は、一向一揆の拠点にもなっていた「金沢御堂(尾山御堂)」でしたが、1580年に「柴田勝家」が「金沢御堂」を制圧して、配下の「佐久間盛政」が居城します。

 

しかし、「賤ケ岳の戦い」後に「豊臣秀吉」の盟友であった「前田利家」が領地を引き継ぎ、豊臣秀吉政権下の働きによって、加賀、越中と能登の一部を領地として与えられ、その後息子の「利長」も大改修を行い100万石(当初は120万石)に相応しい大城郭と城下町づくりを行いました。

 

「利家」死後、「利長」によって大改修したことで、「利長」が幕府=徳川家康に対する不穏の動きありとの言いがかりを付けられたので、母「まつ」を江戸へ人質として差し出し和解をしました。

 

「関ヶ原の合戦」では、「利長」は東軍について加賀での働きを認められ、加賀、越中、能登の三か国119.5万石を領有することになります。そして、1605年に「利常」に家督を譲り隠居しました。

 

「利常」の子「光高」の時に、かれの弟二人に対して「富山藩」と「大聖寺藩」に分割したので、石高は102.2万石となりましたが、徳川家との繋がりが一層強固となるように努力し続け、前田家の存続を保ちました。江戸時代通じて唯一100万石を保ちました。

 

金沢城」の立地と縄張りは、「本丸」は「尾山」という丘の頂部にあり、「二の丸」、「三の丸」、「新丸」、「北の丸」へと雛壇状態になった「平山城」であります。

 

「大手門」は、「新丸」という曲輪の入口にありますが、現在では「搦手門(からめてもん)」である「石川門」から登城するのが一般的です。

 

「石川門」と「兼六園」の間には、「百間堀」という幅広の水堀があり、お城の「出城」的な「兼六園」とによって、東側は守られていました。

 

城内案内図(赤丸は、下記「番所」が付随する「橋爪門」の位置) ↓

 

城内には、現存や復元の「櫓門」が多く建ちますが、その中で「三の丸」から「二の丸」内に入る復元「橋爪門」内に「番所」と思われるスペースが確保され「竪格子」が再現されています。

 

他の「櫓門」内にも「番所」が付随していたかもしれませんが、そのようなスペースは見られませんでした。門内側に単独の「番所」が設けられていたかもしれません。

 

復元「橋爪門」内に「番所」スペースの再現 ↓

復元「橋爪門」(奥に「番所」スペースが見える) ↓

復元「橋爪門」(「二の丸」側から) ↓

 

 

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