先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「松代城」(長野県長野市松代町)の「番所」をお届けします。お城は「日本100名城」に指定されています。

 

「武田信玄」の命で「山本勘助」が築いた「海津城」が原型と言われ、「第四次川中島の戦い」はこの城を巡っての戦となりましたが両者痛み分けとなり、その後は「武田家」による北信濃への領土拡大の拠点となります。

 

「武田家」滅亡後は「織田信長」支配下となりますが、「本能寺の変」後は「上杉家」が当城を吸収し、「豊臣政権」下でも引続き「上杉家」の支配下となっていました。

 

しかし「上杉景勝」の国替えと「秀吉」死去、そして「関ヶ原の合戦」後には「徳川家康」の六男「松平忠輝」が12万石で入城します。

 

「忠輝」は「高田城」を築城して移り、引続き「川中島」を含む当地も領有していましたが、「忠輝」が謀反を理由に改易された後は「松平忠昌」、続いて「酒井忠勝」が入城し、1622年には「真田信之」が8万8000石で入城しました。以降、幕末・維新迄「真田家」のお城として続きますが、1711年に幕命で「松代城」と改名します。

 

松代城」の立地と縄張りですが、「真田家」のお城になってからは、「千曲川」の自然の要害を活用した石造りの「本丸」と、「土塁」や「馬出」中心の「二の丸」「三の丸」となりました。

 

「本丸」の各隅部には隅櫓を置き、「戌亥隅櫓台」は「天守台」に相当する規模のモノでした。「二の丸」は、北側以外の三方を取り囲む配置で前述の通り曲線の縁辺部には「土塁」が巡っていました。

 

そして、「東側」と「南側」2箇所に「武田家」のお城に代表される「丸馬出」と「三日月堀」があり、更に南側の「大手」に当たる「丸馬出」には東西に門があって「三の丸」と連結した「複合馬出」になっていました。更に、「三の丸」東側に「大御門(大手門)」があり、「三の丸」の西側には「花の丸」がありました。

 

「縄張り絵図」(赤丸は下記「文武学校」の位置) ↓

 

城内には復興「太鼓門」と復興「北不明門」が建ちますが、「番所」は復興されていません。

 

ただ、城下に藩士子弟の学問と武術を向上させる場として開校した藩校「文武学校」は、現在でも創建時のままの姿が残されていて国の史跡にも指定されていますが、その「藩文武学校門」の向かって左側に単独の「番所」の建物が建ちます。

 

「藩校」と言えども、やはり内外の出入りは厳しくチェックされていたようです。

 

藩校「文武学校」内絵図(現地に掲出) ↓

「文武学校門」の左手に見えるのが「番所」の建物 ↓

「番所」の建物 ↓

手前が「番所」、奥は「柔術所」 ↓

 

 

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