先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。

 

今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。

 

「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。

 

このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。


今回は、「水戸城」(茨城県水戸市)の「番所」をお届けします。お城は「日本100名城」に指定されています。

 

古くは、12世紀最後に「馬場資幹(しげもと)」が、現在の「本丸」跡に「馬場城」を築きます。しかし1426年に「佐竹家」配下であった「江戸通房」が占拠し「江戸家」が支配します。

 

「佐竹家」は、「豊臣秀吉」による「小田原平定」にいち早く反応し「秀吉」に近づいて自分の領土固めを行いますが、「江戸家」は「水戸城」の明け渡しを拒否した為に、「佐竹家」は「水戸城」を攻撃して「江戸家」を追い出します。そして、本格的な城普請を行い、現在残る4つの大きな曲輪を増築します。

 

「関ヶ原の合戦」では東軍に組しなかった「佐竹家」は出羽秋田へ国替えとなり、その後に「家康」の五男「新吉」、十男「頼宣」を経て十一男「徳川頼房」が入城します。その後幕末・維新迄、「徳川御三家」の一角ではあるものの、本家や他の二家とは違うスタンスで存続することとなります。

 

 

水戸城」の立地と縄張りは、「那珂川」と「桜川」に浸食された台地の先端に築かれた「平山城」です。北に「那珂川」南には「千波湖(せんばこ)」によって防御が優れた場所でした。

 

「佐竹家」の時代にはほぼ規模は確立されて、「徳川家」が入って整備されました。東から「東二の丸(下の丸)」「本丸」「二の丸」「三の丸」が直線的に繋がる「連郭式」の縄張です。

 

その東側と西側に城下町が拡がり、全体を掘と土塁で囲む「総構え」になっていて、石垣は全くない土のお城です。

 

西側から続く台地には、五重の堀を築き、特に「本丸」と「二の丸」の間、「二の丸」と「三の丸」の間の「内堀」は重視されていました。

 

その「二の丸」の入口には「佐竹家」が城主だった1601年頃に建てられた「大手門」があり、明治時代まで残っていましたがその後破却され、古写真を元に2020年2月に復元されました。

 

「櫓門」の復元「大手門」の内側には「番所」を付随していたようで復元の際にも格子窓を施しています。

 

復元「大手門」内側に「番所」を付随 ↓

復元「大手門」 ↓

復元「大手門」(右内側下に「格子窓」が見える)

 

 

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