今まで、「城郭建造物」の「天守」「御殿(茶室・能舞台等含む)」「櫓」「櫓門」「城門」を紹介してきましたが、まだまだ「城郭建造物」はあります!
先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。
今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。
「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば、前述のように「城門(櫓門)」に併設した部屋になっているモノもあります。
このシリーズでは、単独の「番所」建物を中心に、既に紹介はしていますが「城門(櫓門)」に併設されている「番所」も含めて、現存、復元、復興、模擬のモノをできる限り紹介していきたいと思います。
今回は、「江戸城」(東京都千代田区、中央区、港区の一部)の「番所」をお届けします。「日本100名城」に指定されています。
「江戸城」は、江戸時代265年間にわたり、日本を統治した「徳川幕府」の所在地でありその最高トップである「将軍」の居住城でした。初代「徳川家康」から十四代「徳川家茂(いえもち)」までが江戸城で政務を執り起居したお城です。十五代将軍「徳川慶喜」だけが、「江戸城」で政務・起居をしていません。
「徳川家康」が江戸幕府を1603年に開府して以来、三代将軍「家光」の時代の1638年頃まで天下普請が続いて完成に至りました。
その後は、度重なる火災や自然災害が有りましたが、「天守」は「明暦の大火災」(1657年)で焼失して以来なくなりますが、それ以外はその都度再建されて蘇りました。
「江戸城」の立地と縄張りは、嘗ての武蔵野台地の端部に築かれた「平山城」で、「本丸」と「西の丸」がその先端上に築かれています。「本丸」を中心に10の郭があり、それを「の」の字に「内堀」が渦巻きのように囲って「外堀」「神田川」「隅田川」まで至り、南北約3.5km、東西約5kmにも及びます。全体的には「渦郭式」と呼ばれています。
「本丸」を中心にした10郭とは「内郭」と呼ばれ、「本丸」東側の台地下の低地や干拓地には「二の丸」「三の丸」「西の丸下」が続き、「三の丸」正面には「大手門」が開かれています。
「本丸」南西から西側にかけて「西の丸」「吹上」「紅葉山」が位置し、「本丸」北側には「北の丸」が配備され、「本丸」南で「西の丸」東側には「西の丸下」が、「三の丸」や「西の丸下」の東側は広大な「大名小路」「大手前」になっています。
「内郭」の東半分は将軍のお城で全てが石垣造りですが、西側半分は隠居した将軍である大御所や、将軍の跡継ぎが住んだ「西の丸」を頂点とした曲輪群で、最大級の土居(土塁)で構成されていて、堀の水際や城門周囲だけ低い石垣が築かれています。
また「江戸城」には、「外堀」の交通要所に敵の侵入を防ぐための「城門(殆どが櫓門)」を配置して、「三十六見附」と呼ばれて三十六の門が有りました。現在では建物は失われていますが、当時の櫓台の石垣が残っている見附もあります。
縄張り絵図(赤丸は下記説明「番所」の場所、絵図は「東京とりっぷ」からお借りしました) ↓
その中で「番所」は、「大手門」から「本丸」への動線途中に設けられた「同心番所」「百人番所」「大番所」の三棟が残っているのと、城内の現存・復元「櫓門」に付随している「番所」が見られます。
まず「前編」では、「大手門」から「本丸」への動線途中に設けられた「同心番所」「百人番所」「大番所」を採り上げます。
古絵図(赤丸は下記説明「番所」の場所、絵図は「東京とりっぷ」からお借りしました) ↓
まず「大手門」の枡形で左へ折れてから真っ直ぐ進むと「大手三の門」枡形跡の石垣があります。元々はその前に「堀」が横たわり「下城橋」があって。文字通り登城してきた殆どの大名はここで輿から下りて中に入りますが、大名のお供を監視するのが「同心番所」でした。現在は、門の内側に移されていますが、当時は「下城橋」の手前に置かれていた番所です。
「同心番所」は「入母屋屋根」で「本瓦葺き」、前面には「瓦庇」が出張り、棟瓦や軒端に瓦には、「葵の紋(三葉葵)」が付いています。
ここに詰めていたのは次に紹介する「百人番所」と同じ「鉄砲百人組」の与力・同心が担当していました。同心は、下級役人で「御家人」でした。
「同心番所」 ↓
「同心番所」 ↓
「同心番所」 ↓
「同心番所」 ↓
「大手三の門」の枡形を左に折れると、「本丸」に入る「中の門」前の広い敷地出ますが、その前に「二の丸百人番所」が構えています。
入城者の検問に加え、江戸城の有事に備えると共に将軍の護衛を担った警備集団が詰めていて 江戸城警備を担当する「若年寄」の直轄支配下の「鉄砲百人組」でした。 ここには「伊賀組」「甲賀組」「根来組」「二十四騎組」が与力20人、同心100人の交替で詰めていました。
当番所は、「入母屋造り」の「本瓦葺き」で平屋の前に「瓦庇」を付けて延ばしていて、現存で日本最大の規模を誇ります。棟瓦や軒端に瓦には、「葵の紋(三葉葵)」が付いています。
「二の丸百人番所」 ↓
「二の丸百人番所」 ↓
「二の丸百人番所」 ↓
「二の丸百人番所」 ↓
「二の丸百人番所」 ↓
「中の門」跡に入るとすぐ右側奥には、「大番所」が構えています。ここが最終チェックポイントですので、他の番所よりも身分の高い「与力」を中心に警備していた番所です。また「書院番頭」の詰所としても使用されていました。
当番所は、1966年に「皇居東御苑開園」に合わせて復元されたものだそうで、今まで現存の建物だと思っていました。
当番所は、「入母屋造り」の「本瓦葺き」で二重屋根になっていて格式が高く仕上げられています。周囲は開放的な縁側が取巻いています。こちらも棟瓦や軒端に瓦には、「葵の紋(三葉葵)」が付いています。
「大番所」 ↓
「大番所」 ↓
「大番所」 ↓
「大番所」 ↓
「大番所」 ↓
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