本日も「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズをお休みにして「お城紀行」を投稿します。

 

先日(12/5)、日本100名城の「大和郡山城」(奈良県大和郡山市)に訪城し、昨日<前編>をお届けしましたので、本日は「極楽橋」を渡った「毘沙門曲輪」跡から見ていきます。

 

縄張図↓

郡山城跡案内絵図↓

「極楽橋」(「毘沙門曲輪」跡側から)↓

「極楽橋」(「毘沙門曲輪」跡側から)↓

 

橋を渡った所には「柳澤家」の資料等が保存されている唐破風の立派な建物の「柳澤文庫」があり、その脇には真っ赤な紅葉が凄く映えていました。

 

唐破風の立派な建物の「柳澤文庫」↓

「柳澤文庫」脇の真っ赤なモミジ↓

 

「毘沙門曲輪」跡の北側には、先ほど「天守台」から見えていた復興「追手門」と復興「追手向櫓」、そしてその二つを繋ぐ復興「多門櫓」が建ちます。二重二階の「追手向櫓」は、「追手門」を監視する櫓でしたが、明治6年に取り払われました。「追手向櫓」は1987年に「多門櫓」「東隅櫓」と共に復興再建されました。

 

復興「追手向櫓」↓

復興「追手向櫓」↓

復興「多門櫓」↓

復興「追手向櫓」(枡形内から見上げる)↓

復興「追手向櫓」(「追手門」脇から見る)↓

 

「追手門」だけが1983年に先行して復興再建されました。復興に際しては、「豊臣秀長」築城当時に近い形での再建としましたので、敢えて冠木に「豊臣家家紋」の「五三の桐」を付けています。「陣甫曲輪」からの入城となり、右に折れる枡形となっていますが高麗門等の「一の門」はありません。そして、入ると左に折れて石段を上がっていく「埋門」型式です。

 

右から復興「追手門」「多門櫓」「追手向櫓」で右に折れる枡形↓

復興「追手門」(壁に柱が見える古い形式の「真壁造り」)↓

復興「追手門」には「豊臣家家紋」の「五三の桐」が付く↓

復興「追手門」(扉の上が格子になっている「戦国時代」の門扉)↓

復興「追手門」の裏側は「埋門」型式↓

 

更に、この「追手門」を見張るのが二重二階望楼型の「東隅櫓」です。門の東側に「多門櫓」を付随して建ちます。江戸時代には当櫓は「今太鼓櫓」と表記されていたので、当時は城下に時を告げる「太鼓」が置かれていたようです。この櫓も1987年に復興再建されました。

 

「多門櫓」を付随した「東隅櫓」↓

「東隅櫓」(「多門櫓」が付随)↓

「東隅櫓(太鼓櫓)」↓

 

復興「追手門」を潜って石段を上った場所が「常盤曲輪」跡になります。先ほど「天守台」から見えていた「城址会館」は、1968年に「奈良県立図書館(明治41年築)」を譲り受けて移築開館した建物で、現在は県有形文化財に指定されています。

 

「常盤曲輪」跡に建つ「城址会館(旧奈良県立図書館)」↓

 

「常盤曲輪」跡から西にかけて「玄武曲輪」跡が続きますが、北側は「土塁」が続きます。そしてその北側には幅が広い「左京堀」が「土塁」下に沿って掘られています。

 

「常盤曲輪」跡から「玄武曲輪」跡にかけて「土塁」↓

「常盤曲輪」跡から「玄武曲輪」跡にかけて「土塁」↓

 

私は、「野面積み・乱積み」が綺麗な「本丸」跡とその上に立つ「天守台」を左手に見ながら前進しました。

 

「本丸」跡と「天守台」の「野面積み・乱積み」石垣↓

「本丸」跡と「天守台」の「野面積み・乱積み」石垣↓

 

「馬場先門」跡を通ると南へ真直ぐ伸びる「厩(うまや)」跡が整備されていました。更にその先「南側」は「総曲輪」跡として整備され、「資料館」も建っていて中には縄張り図など各種のパンフレットが置かれていました。最初にこちらに来ていれば「縄張り図」を見ながら見学できたでしょう。

 

「馬場先門」跡↓

整備された「厩」跡、奥が「総曲輪」跡↓

 

「総曲輪」跡と「麒麟曲輪」跡の間にも「松蔭堀」という「堀」が掘られていました。

 

「松蔭堀」↓

 

「総曲輪」跡を出たところが、「郡山高校」北側の先ほどの道にでます。そこには復興の「土塀」と共に「中仕切門」跡と学校側には二の丸「裏門」の碑が立っていて、少し西側に進むと「松蔭門」跡の櫓台の石垣が立派に残っていました。

 

「中仕切門」跡↓

「松蔭門」跡(南側から)↓

「郡山高校」側の「松蔭門」跡(西側から)↓

「松蔭門」跡(西側から)↓

 

この辺りは西側からの防備が確固に築かれていて、更に西側には堀代用の「鰻堀池」が「麒麟曲輪」沿いに掘られ、「松蔭門」の南側には土橋が堀代用の「鷺(さぎ)池」を跨ぎます。また、土橋手前には「二の丸」の出入口として「南御門」が築かれていて、現在は高校の通用門になっていました。

 

西公園と「新蔵」跡↓

堀代用の「鰻堀池」↓

「南御門」跡(現在は、学校通用門)↓

 

「鷺池」は東西に長く幅もある堀で、「二の丸」側には「坤櫓」と「砂子の間前櫓」という二基の櫓が建っていたそうですが、現在は木々に覆われてその遺構は確認できませんでした。

 

「鷺(さぎ)池」(木々が茂っているのが「二の丸」跡)↓

 

「土橋」から少し南に位置する「永慶寺」は藩主「柳澤家」の菩提寺で、その山門は「豊臣秀長時代」の城門が移築されたものだとかで、「大和郡山城」唯一の現存城郭建造物です。門の形式は、鏡柱2本だけの「棟門」ですが、扉には「八双金具」「乳金具」が付いていました。

 

「大和郡山城」唯一の現存城郭建造物(城門、現在は「永慶寺山門」に移築)↓

「永慶寺山門」には、「八双金具」「乳金具」が付く↓

 

「松蔭門」跡まで引き返した後は、「鰻堀池」沿いの「麒麟曲輪」跡の中を通る道を進みました。以前は「郡山高校分校」がありましたが、現在はそれが無くなりこの辺りも整備中でした。どのように変わるか楽しみでもあります。

 

「麒麟曲輪」跡↓

 

「西御門」跡から橋を渡り、西「左京堀」の西側に沿って歩きます。この辺りの堀は現在空堀になっていますが、当時は水が湛えていたのでしょうか。ただ「右京掘」は高低差がかなりあるので、現在も低い東側辺りに水が溜まっているので当時もそうだったかもしれません。

 

「西御門」跡を出て「鰻堀池」を見下ろす(この下は公園化されている)↓

「右京掘」の北西隅(この辺りは「空堀」)↓

「右京掘」の北側(この辺りは「水堀」)↓

 

「右京掘」を越えた所が、「麒麟曲輪」「厩」「常盤曲輪」「玄武曲輪」の北側で「土塁」が続いているようです。一番低い「近鉄橿原線」の踏切の手前には「玄武曲輪」跡の北東隅の石垣が見えます。

 

「玄武曲輪」跡辺りで「土塁」が続く↓

「玄武曲輪」跡の北東隅の石垣↓

 

踏切を渡って右手(南側)すぐの所にも二つの櫓台の石垣が南北に並んでいますが、これが「桜御門」跡です。

 

「桜御門」跡の「櫓台」(北側)↓

「桜御門」跡の「櫓台」(南側)↓

 

右手に先ほど見た復興「東隅櫓」と復興「多門櫓」が下見板張りの茶色が良く目立って建っています。

 

復興「東隅櫓」と復興「多門櫓」↓

復興「東隅櫓」と復興「多門櫓」↓

 

南北に長い「五軒屋敷堀」沿いの道路を歩き駅に急ぎましたが、道路の東側に、当時は「柳曲輪」があり、更に東には広大な「五軒屋敷」があったようですが現在は行政地や住宅地等に変貌しています。「五軒屋敷跡碑」があったのですが、電車時間に間に合わそうと急いでいたので写真を撮らず仕舞いでした。

 

久しぶりの「大和郡山城」に訪城しましたが、紅葉が真っ盛りで真っ赤な木々を愛でながら散策でき、しかも前回訪城した時は工事中だった「極楽橋」を今回は渡れたし、「厩」「総曲輪」が整備された所を見られて良かったでした。

 

「毘沙門曲輪」跡内の紅葉↓

 

 

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