梅雨の合間の隙に、「お城巡り」に行きたくてウズウズしていた私は、一昨日(6/6)昼から小雨になるという予報があったにも拘わらず、朝一から出かけました。
午前中は、「道の駅 竜王かがみの里」でバスを下車して「星ケ崎城」跡に登城しましたが、天気はもってくれて無事下山しました。
「道の駅」で昼食を終えた私は、11時44分の「野洲行」バスに乗り込み、5分程の乗車でしたが「辻町」で下車して「永原御殿」跡まで2.8kmの距離を小雨の中行軍しました。
当初私の予定では、「辻町」からほど近い「桜生(さくらばさま)城」を見学した後に、「永原」へ向かう予定でしたが城跡の場所が解らず「桜生(さくらばさま)史跡公園」内の古墳群に迷い込んでしまいました。
「桜生史跡公園」
史跡公園内の古墳の一つ「円山古墳」
「永原」までの移動には、「辻町」近くの「野洲健康福祉センター」から13時発の「コミュニティバス」で移動する予定にしていましたが、午後からの雨予報で計画を前倒しして家を早く出たことから、結果この時間よりも随分早くなったので乗れませんでした。
一面に拡がる「麦畑」の中を通り抜け、JR「野洲電車留置所」下を潜り、今度は自動車道を北上して「永原」へ辿り着きましたが、雨がかなり降ってきてもはや傘が必要となっていました。
一面「麦畑」でもう茶色になっていました
約30分かけて辿り着いた「永原御殿」跡は、以前に訪城した時の記憶が殆ど無かったですが、北東端の木の下に斜めに佇んでいる「史跡 永原御殿跡」碑がそのまま立っていました。
「永原御殿」跡の「本丸」跡
「史跡 永原御殿跡」碑
「永原御殿」(滋賀県野洲市)の歴史と城主について、ここで触れておきます。
「永原御殿」は、江戸時代初期に、「徳川家康」「秀忠」「家光」が、江戸から天皇に会う「上洛」時に、近江国内で宿泊した城郭風宿泊御殿でした。「家康」は6回、「秀忠」は4回、「家光」は2回宿泊しています。
「永原御殿」の縄張りは、城郭と同じように「本丸」を設け、1634年の「家光」上洛時には、南側に「二の丸」を、東側に「三の丸」を増設しました。周囲は「堀」で囲われ、特に「本丸」周囲の堀は幅広の「堀」が取り囲んでいました。
「縄張り図」(入口付近に説明書きと共に掲出)
「本丸」内には、豪華な「本丸御殿」の他に「休憩所」「御亭(おちん)」が建てられました。
また「本丸」周囲は、背の高い「土塁」で囲い、その隅には二重の「角櫓(すみやぐら)」が置かれ、「本丸」入口は「東之御門矢倉」と呼ばれて「櫓門」が築かれ、「二の丸」との間にも「御門矢倉」が築かれています。まさに、お城そのものでした。
しかし、「家光」が上洛した後は、幕末まで「将軍」の上洛が無く、廃城とされました。
発掘調査から、色々なものが発掘され2020年には「国指定史跡」に指定されています。
それでは、「本丸」跡へ入って行くことにしますが、その前に「石垣」が残っていると言われている南面を見ると、十数mくらいでしょうか、数段の石垣(石積み)が見えます。多分、「本丸」を囲う「堀」沿いのモノと思われます。「石垣」が残っているのはこの部分だけと思われ、正面(東側)の「堀」跡は広い空き地となっていて車が駐車していました。
「本丸」跡南面の「石垣(石積み)」
「本丸」跡南面の「石垣(石積み)」
「本丸」跡東側の「堀」跡
以前(2001年)に訪問城した時は、前述の「跡碑」と「堀」跡の空き地がありその西側の後背地には森が繁っていたような状況でしたが、今回は、「東之御門矢倉」(表門)があった場所から、通路に沿って中の木々が伐採されていて直進方向が望めます。
「本丸」跡正面の木々は伐採(西方向)
少し入って左右がまた木々が伐採されていて開けていましたので、左手(南方向)へ進むと真正面には「南土塁」が立ちはだかっています。「南土塁」に沿って西に向かって木々が伐採されているので、真正面の「西土塁」が遠くに見えます。
「本丸跡南土塁」
「本丸跡南土塁」(西方向)
その手前にはブルーシートが「南土塁」の切れ目に掛けられていましたが、その切れ目が、「家光」が造らせた「二の丸」への「御門矢倉」が建っていた場所のようでした。そのシートから石が覗いていました。
「本丸南土塁」の切れ目(石が覗く)
「南土塁」沿いに西方向へ進むと、「本丸」跡の南西隅となりそこから北方向へ向かって引続き「西土塁」が延びています。
本丸南西隅「坤角櫓」跡
そしてその境目には「坤角櫓跡」との標記がされていたので、その上へ駆け上がるとかなりの高さがあり、更に「二重櫓」が建っていたので、監視力も抜群だったようで、櫓の東方向と北方向に走る「土塁」の上部が良く解りました。
「坤角櫓」台上
「坤角櫓」台上から「本丸南土塁」東方向
「坤角櫓」台上から「本丸西土塁」北方向
「坤角櫓」台から今度は、北方向に向かって進むと、右手の中心部が伐採されていて内部へ入ることができましたが、特に何もないので戻りました。そこらあたりは「本丸御殿」が建っていた場所なんでしょう。
「本丸」跡中心部 から北方向
「西土塁」前に戻り北へ進むと、伐採されていない手前に「御亭跡」標記がされていて、その後方には「御亭(おちん)」の礎石がズラリと並んでいました。「御亭」とは、近世城郭の「御殿」内に建てられる「数寄屋風」の建物で、2~3階建てが多く、城主の憩いの場的な場所や、来客をおもてなす場所として使われた建物です。「家光」が優雅に過ごした場所だと思うと感激します。
「御亭跡」の標記
「御亭跡」の礎石
「御亭」の北西方向には、ブルーシートで覆われた「西土塁」と「北土塁」が目に付きますが、その接点が「乾角櫓跡」との標記がありました。
「西土塁」と「北土塁」の接点、「乾角櫓」台跡
「乾角櫓」台跡
丁度今、発掘調査中なのでシートが被せられているようですが、ここもシート下には「溝」等が見えていました。
「乾角櫓」台跡上
「乾角櫓」台跡上から「西土塁」方向
「乾角櫓」台跡上から「北土塁」方向
「本丸」北西エリアから斜めに木々が伐採されていて、そこを進むと先程「西土塁」沿いの途中から中に入った場所に出ました。「本丸御殿」跡と思われる場所です。
「本丸」跡北西エリア方向
礎石のような石がある
ここから東方向に進んだ所が、「東之御門矢倉」(表門)があったと思われる最初の場所へ戻りました。
「本丸」跡とその周囲にしっかりと残る「土塁」「櫓台」を見て、「徳川三代」時代のパワーが感じられる跡地巡りでした。正面の堀跡空地の東側の森は「三の丸」跡で、まだ手が付けられていない場所のようです。「二の丸」跡には、住宅地が並んでいました。
「三の丸」跡
約35分くらい中を歩き廻って左足が攣りだしたので、北側にある小さな「土安(てやす)神社」のベンチに腰掛けて雨の中一休みしました。少し歩いた所に「浄泉寺」というお寺があり、そこには「永原御殿移築門」があるのですが、もうこれ以上歩く余力はなかったので訪問は断念しました。以前(2001年)に尋ねた写真をここに掲載しておきます。
※因みに、御殿の一部(書院)は、現在「芦浦観音寺」(滋賀県草津市)へ移築されています。
「永原御殿移築門」(「浄泉寺」、2001年の時の写真)
「永原御殿移築門」(「浄泉寺」、2001年の時の写真)
さて帰りの足をどうすべきか悩みました。というのも、前述したように計画を前倒ししたことによって「永原団地」から出る「コミュニティバス」の発車時間14時40分まで1時間20分もあります。この雨の中、ここでジッとしているわけにもいかず、しかしながら、攣っている左足が治まるかが心配でしたが、意を決して「野洲駅」までの3.4kmを歩いて行くことにしました。(「湖国バス」路線はあるものの、15時台まで運行していませんでした)
ゆっくりと歩きながら、何とか40分かけて「野洲駅」に辿り着きました。肌寒い日でしたが、やはり歩くと熱量が発散するのか、凄くアイスクリームを身体が求めていましたので、駅売店で購入してかぶりつきました。
昼から雨に祟られましたが、「お城巡り」に行きたい!という気持ちが勝り、帰りの新快速の車中では、ひたすら睡眠時間となりましたが、非常に充実した1日を過ごすことができました。
「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。
「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。
もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。































