すでに「速報」でお届けしていますように、8/2(火)~4(木)の二泊三日で、「夏好例のお城巡り一人旅」に出かけました。

 

7城目は「会津若松城」(福島県会津若松市)です。「お城巡り一人旅」の第二弾を先日(8/18~19)一泊二日で行ってきましたので暫し中断し、7城目のお届が遅くなりましたが、情報量が多いので3部形式(前編、中編、後編)でお届けします。

 

前夜(8/3)、「郡山駅」から「磐越西線」不通の影響で高速バスによって辿り着きましたが、当日(8/4)も朝からパラパラと雨が降ると共に、「磐越西線」が終日の不通が決定しましたので、「猪苗代城」へのアクセスが無く訪城を断念することなりました。更に、「会津若松城」を訪城した後は、「郡山駅」まで再び高速バスを使用しないといけないことから、時間の予定変更を余儀なくされました。

 

当初計画では、朝一の列車で「向羽黒山城」へ向かう予定でしたが、そこは昨夜に既に断念していましたので、朝は珍しくユックリめの起床で「会津若松駅」から9時30分の「まちなか周遊バス ハイカラさん」でお城へ向かいました。

 

「まちなか周遊バス ハイカラさん」

 

途中、名所に止まりながら進み、旧街道沿いの「七日町通り」は昔ながらの商屋や蔵等が建ち並び、特に私にとって興味があった「阿弥陀寺」に移築されている「会津若松城」の「御三階」は、車窓からでしたがシッカリと眼に焼き付けました。

 

「阿弥陀寺本堂」として使用されている「会津若松城」の「御三階」(この写真は2009年8月の訪問時のモノ)

 

「鶴ケ城北口」バス停で下車すると、いよいよ雨が本格的に降ってきましたが、そこから城攻めに突撃しました。

 

その前に、「会津若松城」の歴史と城主について触れておきます。

 

当城の前身は、「蘆名(あしな)家」によって築かれた「黒川城」でしたが「伊達政宗」がそれを奪い、「豊臣秀吉」の全国統一後は、「豊臣秀吉」が「蒲生氏郷」を会津に入封させ新たに築城させたお城に「若松城」と名付けました。その後、「上杉景勝」が入城して、「徳川家康」の征伐軍に備えるために、お城を大改築しました。

 

関ケ原の戦い後は、「加藤家」が入城し、「蒲生氏郷」時代に現在の廊下橋前の「大手門」の位置から、「北出丸」を増築してその北東部へ移して北からの防御の備えにしました。

 

1643年に「保科(ほしな)正之」が3代将軍「徳川家光」の命によって「高遠藩保科家」から呼び戻されて、「会津藩」23万石の大名として取り立てられ、その後「正之」の子孫は、「武家の棟梁である徳川家を支える」ことを家訓に掲げて「会津松平家」として幕末・維新まで存続します。

 

「正之」は「家光」から、四代将軍となる「家綱」を支えるように命じられ、将軍補佐役として活躍、幕閣の中心となって文治政治を推進しました。

 

また、財政再建も進め、「江戸城天守」の再建機運が高まっていたものの、巨額のお金が必要となる「天守」再建を断念させたことでも有名です。

 

そして幕末にも大きなスポットが当たります。尊王攘夷など幕末の混乱期に「京都守護職」を命じられた会津藩主9代目「松平容保(かたもり)」は、幕府からの再三の要請によって、福島から多くの藩士を率いて「京」の秩序維持の為に京都東山の「金戒光明寺」に常駐しました。

 

「京」の安全警護に尽力し、時の天皇「孝明天皇」から凄く信頼され、公武の均衡を保つことができていましたが、孝明天皇が逝去した後は、新政府から“朝敵”として位置づけられる等、大変な時期を「京」で過ごし、結末は最後の将軍「徳川慶喜」とともに江戸へ逃げ帰り、更に会津若松へ戻ります。

 

最後まで徳川幕府を支えるべく「戊辰戦争」では新政府軍からお城に大砲を撃ち込まれる等して落城してしまいます。

 

当城の「縄張り」ですが、小田垣の丘に建つ平山城で、その「本丸」東側に「二の丸」「三の丸」と二重三重もの備えがありました。

 

「蒲生家」「上杉家」時代は、「連郭式縄張り」だったものを、「加藤明成」が「本丸・帯曲輪」の中心地から西側に「西出丸」、北側には「北出丸」の各々馬出的な曲輪を設けて北西の守りを固めました。その後、「保科正之」が入城して一部修築があったものの、ほぼそのままの形で使用されました。

 

「会津鶴ケ城入城パンフレット」の縄張り図に、これから掲載する見所を太赤字で書き加えをしています

 

さて私は、「ハイカラバス」を下りて傘を差しながら自由の利かない行軍となりましたが、「北出丸」跡の「大手(追手)門」跡から入城しました。

 

「北出丸大手(追手)門」跡の正面

 

以前に訪城時には、曲輪側からだけしか見ていなかった為でしょうか、ショボイ「大手門だな~」という印象でしたが、今回、外からの入城と周囲の曲輪配置の確認によって、「蒲生時代」の東側に開いていた「大手(追手)門」を「加藤明成」が二つの出丸を設け「北出丸」の方に当初の「大手(追手)門」に劣らぬ立派な門を付け替えた理由とその姿を認識することが出来ました。

 

「大手(追手)門」の東側の「三岐(みつまた)堀」の向こう側には「伏兵曲輪」が迫っていてそこには多くの武士達を退避させることができ、更には南側の堀越えした高台が「本丸」となっているので、万一「大手(追手)門」に敵方が攻めよせてもその三方からの一斉攻撃によって敵方を殲滅が出来ることから「みなごろし丸」とも呼ばれている入口です。

 

「伏兵曲輪」跡(左側)と手前の「三岐堀」

「本丸北櫓台」跡

 

門そのものは、外側は低い遮蔽の様な石垣で裏が雁木になっているので「一の門」が建っていたのかもしれません。内側には右手に櫓台、突当りに多門櫓台が右へ延びて桝形になっていますので、「多門櫓」と「櫓門」が建っていたのでしょうか。「櫓台」は「切込接・乱積み」ですが、所々に「亀甲くずれ」も見られます。

 

「北出丸大手(追手)門」跡の正面石垣裏側の「雁木」

「北出丸大手(追手)門」跡の桝形は右折れして左折れ

 

「多門櫓台」の裏側にも「雁木」が見られ、強力な受け態勢が整備されているようです。

 

「北出丸大手(追手)門」跡 「多門台」裏側の「雁木」

 

「北出丸」跡の北東隅に「北出丸北東櫓」跡が、北西隅には「北出丸西北櫓」跡があり、現在その敷地内には「武徳殿」が建ちます。

 

「北出丸北東櫓」跡

「北出丸西北櫓」跡

「北出丸」跡内に建つ「武徳殿」

 

「椿坂(横手坂)」を南に上って行くと「帯曲輪」跡から「本丸」跡への最短コースとなりますが、敢えて私は先に「西出丸」跡に向かう為に、「北出丸」跡の西端の「西(棟)門」跡から出て、「西出丸」跡へは「西出丸大手門」跡から入りました。

 

「椿坂」(「本丸」跡方向)

「北出丸」跡の西端の「西(棟)門」跡


 

「西出丸」跡も「加藤明成」によって造成された曲輪で、北西隅に「西出丸北西櫓」が、南西隅に「西出丸南西櫓」が置かれ、「煙硝蔵」「漆蔵」「蝋蔵」が並んでいたそうです。

 

「西出丸北西櫓」跡

 

「西出丸大手門」跡に向かう土橋のような道からは、「本丸」跡へ向かう「椿坂(横手坂)」と「梅坂(知期理坂=ちきりさか)」の両坂が望めます。

 

「椿坂(横手坂)」

「梅坂(知期理坂=ちきりさか)」

 

「西追手門」跡も立派で、突き当りには「多門櫓」が建っていたような長い櫓台が横たわり、正面には「鏡石」が嵌められています。右手に折れると「櫓門」があったのではないかと思われる「櫓台」が見られます。

 

「西出丸大手門」跡(右折れして左折れする桝形)

「西出丸大手門」跡の桝形内(ここにも「雁木」)

「西出丸大手門」跡桝形内の「鏡石」

 

「西出丸」跡内は、現在駐車場となっていて広々とした敷地ですが、西側の「南町通堀」沿いの石垣裏側(西出丸内)は二段の「腰巻石垣」が続き、所々に曲輪側に出張りが見られるのは何なんでしょうか。

 

「西出丸」跡

「南町通堀」沿いの石垣裏側(西出丸内)は二段の「腰巻石垣」と「出張り」

 

グルっと「腰巻石垣」沿いを歩いて南東隅に辿り着くとそこに「内讃岐門」跡の石垣が見られます。「讃岐」という名前の由来ですが、ググってみると「蒲生時代」のこの辺りに「河北讃岐守」の屋敷があったことからだそうです。

 

「内讃岐門」跡

「内讃岐門」跡(当城内では、前線に「雁木」が装備されているのを良く見かけます)

 

いよいよ雨の降り方が尋常ではなくなり足を速めて「梅坂(知期理=ちきり)」に向かいました。

 

この坂を先上り切った所の「帯曲輪」西側入口である「西中(弓)門」跡も非常に立派で「切込接・布積み」に近い積み方がされていて、右折れそして左折れの桝形構造になっています。

 

「西中(弓)門」跡(右折れして左折れ)

「西中(弓)門」跡の「切込接・布積み」

「西中(弓)門」跡(右折れして左折れ)

 

「西中(弓)門」跡北側の土塁の上には、「鐘撞(かねつき)堂」が建っています。ここには時守を置いて昼夜に亘って時を告げていたそうで、現在の鐘は1747年作です。戊辰戦争の際には、新政府軍の砲火が集中しましたが、開城まで時を発し続けていたそうです。

 

「鐘撞(かねつき)堂」

 

その横には、「鐘之櫓(北西櫓)台」がありますが、雨の為に駆け上って写真を撮るのを断念しました。

 

観光案内所と無料休憩所がある前には、「太鼓門」跡の「多門櫓台」が大きく口を開いていましたので、そこへ引き込まれるようにして足が進みました。左へ折れ曲がると「椿坂(横手坂)」を下り「北出丸」跡へ出ますので、私はその前で足を止め踵子を返すと、目の前の櫓台には「鏡石」が随所で見られました。

 

「太鼓門」跡(「椿坂」方向、右折れして左折れ)

「太鼓門」跡(「椿坂」側から、右折れして左折れ)

「太鼓門」跡入口の「矢穴」付き「鏡石」

「太鼓門」跡の桝形内の「鏡石」

 

「太鼓門」跡から出て「多門櫓台」の裏(帯曲輪)側には、カタカナの「ハ」の字を逆にして上って行く石段「合坂」が見られます。

 

「多門櫓台」の裏(帯曲輪)側で見られる「合坂」

 

その前には、「天守」を支える見事な「野面積み」でしかも大きな不揃いの隅石を積み上げていく「天守台」が迫ってきます。「算木積み」が未発達な状態でこのような大きい石を交互に積上げて行く大規模な隅石の積上げは、なかなか見ることが出来ないレアものです。

 

「野面積み」の巨大な「天守台」

その真下から見上げた復元「天守」

 

「天守台」の西面に沿って「帯曲輪」内を南下して「天守台」が切れた左手には、復元「天守」から繋がる復元「走長屋」が南方向に延びて正面に見える復元「鉄(くろがね)門」に繋がります。更に、「鉄門」から南方向に木造復元の「南走長屋」が延びてその先には木造復元の「干飯櫓」が建ちます。

 

「天守」に接続する復元「走長屋」

復元「天守」から繋がる復元「走長屋」、復元「鉄(くろがね)門」、木造復元「南走長屋」、木造復元「干飯櫓」

 

これらの建造物によって、「帯曲輪」と「本丸」を区分する役割を果たしています。「鉄門」が「本丸」の「表門」の役割を担っていて、北側の「合坂」近くには「本丸」の「裏(搦手)門」が置かれました。

 

「鉄門」について記載する前に、「鉄門」の西脇には「上杉謙信仮廟所」跡と表示された場所が有ります。ここは、「上杉景勝」が会津に移封の際に「上杉謙信」の墓所も移され、城内の西南隅の仮殿に安置されたとの記録があり、この場所が推定されています。

 

「上杉謙信仮廟所」跡

 

「鉄(くろがね)門」についてですが、柱や扉が鉄で覆われている「渡櫓門」形式で、「奥御殿」の正面に繋がる「表門」です。「鉄門」から「表御殿玄関」前までは石畳が敷かれていて、今でもその遺構を見ることが出来ます。格式を上げるために設えられたものです。

 

復元「鉄(くろがね)門」(「帯曲輪」側から)

復元「鉄門」(「本丸」跡側から)

「鉄門」の柱や扉は鉄で覆われている

「本丸御殿玄関」まで敷かれた「石畳」

 

また、「鉄門」の両脇の櫓台の石垣は「切込接・乱積み」で積まれています。

 

「鉄門」櫓台の石垣は「切込接・乱積み」

 

「戊辰戦争時」には、この門の内側で指揮が取られたと言われています。

 

「前編」はここまでとして、次回「中編」では「天守」の美しい姿から見て行きたいと思います。

 

 

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