すでに「速報」でお届けしていますように、8/2(火)~4(木)の二泊三日で、「夏好例のお城巡り一人旅」に出かけました。
「桑折駅」から乗車して「福島駅」で乗換え「二本松駅」に11時02分に到着しました。
5城目は「二本松城」(福島県二本松市)で、駅前の観光協会でレンタサイクルをお願いすると、お城まで行くのにかなり急な坂を越えないといけないので、歩いていく方が楽だと言う方が多いとのことでしたが、以前訪城した時には、そんなイメージがなかったこともありましたし、今回私は「二本松城」の周囲にある「松坂門」「池之入門」「竹田門」等の各跡にも足を延ばしたかったので借りることにしました。
空模様はかなり険悪になってきていましたがスタートです。
ここで、少し「二本松城」の歴史と城主について触れておきます。
「二本松」は、「畠山家」の嫡流であった「二本松畠山家」が築城します。しかし、戦国時代に入り「蘆名家」「伊達家」等の有力領主に圧迫されて衰退していきます。
その後「豊臣政権」下では「上杉家」から「蒲生氏郷」の支城として石垣を積み近世城郭化が進みます。
「江戸時代初期」には「蒲生家」から「加藤家」に替わり、「本丸」の拡張を行うなどしますが「加藤家」が改易となり幕府領となります。そして1643年に「丹羽光重」が10万700石で入城してからは、築城名手であったので一層の近世城郭に大改修させています。
「丹羽家」は、幕末・維新まで統治が続きますが、「戊辰戦争」では戦場となり1868年7月に落城してしまいます。
「二本松城」の「縄張り」ですが、標高345mの「白旗ケ峰」山頂の山城部分と山麓の居館からなる「平山城」です。「畠山時代」には山頂からの尾根沿いに曲輪を配置していましたが、その後「本丸」を「総石垣造り」に改変します。
縄張り図(城内に掲出)
「本丸」から少し東側に下りた所には、「本丸」を補完する曲輪「乙森(おともり)」が配備され、更にその下には「煙硝蔵」「松森館」等と呼ばれる曲輪が点在していました。
一方、搦手側には「畠山家」のお城であった「新城館(しんじょうだて)」の曲輪をそのまま使用して「蒲生時代」には「城代屋敷」が置かれていました。
「三の丸」は、南山麓に位置して藩政の中心部として「新御殿」「お部屋住居」「御殿」等の諸施設が置かれ、上下二段になっていました。
そして、城内南側を通っていた「奥州街道」を東西に延びる「観音丘陵」の外側(南側)へ付け替えて、「観音丘陵」を城内に取り込み丘陵を防塁として城内が判らないようにしました。その出入口には「切通」を設けて「門」を構えました。
現在地図に城跡を表示(城内に掲出)
さて、自転車で「大手門(坂下門)」までは直ぐです。「歴史博物館」「図書館」の道沿いには、「亀甲崩れ」で「切込接」の石積みの櫓台が残ります。
「大手門(坂下門)」跡(「亀甲崩れ」で「切込接」の石積みの櫓台)
「大手門(坂下門)」跡
ここには、江戸時代当初より切望していた「大手門」が、やっとのことで1832年に幕府に願い出て「櫓門」が建てられました。しかしながら、1868年7月の戊辰戦争で焼失してしまい、わずか30数年間だけしか領民の目にすることができませんでした。
ここで写真を撮っていると、とうとう雨がザーと降ってきて仕方なく、目の前の「図書館」駐車場の下へ退避して雨宿りです。スマホで雨雲レーダーを見ると、暫く雨が続きそうでしたので、「天守台」の上で「二本松市街地」を眼下に納めながら食べようとしていたサンドイッチを自転車の上で食べることにしました。
約20分くらいでしょうか、少し雨脚がマシになったので、再スタートを切りました。観光案内所の方が言ってたように、自転車を押しながらの坂道歩行はかなり厳しいものがありました。途中何度か休憩を繰り返しながらもテッペンに辿り着いて振り返った道路の反り上がりは凄いものがありました。後から調べると「図書館」から280mの距離に対して40mも上ったことになります。
「久保丁坂」
その辺りが「切通し(きりとおし)」になっていて「久保丁門」跡のようです。
「久保丁門」跡付近
逆にここからは下り道で「郭内」に入り、一気に「二本松城」の「藩士通行門」跡まで到着しました。その門跡前には、大きな石に藩士を戒める内容が記載された「旧二本松藩戒石銘碑」が立ちます。これは、五代藩主「丹羽高広」が刻ませたものだそうです。
「藩士通行門」跡
「旧二本松藩戒石銘碑」
そこから見る「三の丸」跡の石垣と「土塀」そしてかすかに見える模擬「二重櫓」は良く写真で見る構図です。本来青空であれば、白壁と青空で美しいはずでしたが・・・
「二本松城内案内図」(城内各所で掲出)
「三の丸」跡石垣と土塀、模擬「二重櫓」
「三の丸」跡石垣の「算木積み」
正面に移動して自転車を置き、城内へは「箕輪門」に向かって坂道を上がり入城します。坂道の右側の大きな広場は「千人溜(せんにんだめ)」と言い、戦士たちを集合させる場所です。長野県の「上田城表御門」前にも同じ用途の広場がありました。
「箕輪門」へ向かう坂道の正面(前に流れる水路は「二合田用水(※後述します)」
「千人溜(せんにんだめ)」
戊辰戦争時には、「千人溜」に62名が集まり出陣したという12~17歳の「二本松少年隊像」の勇ましい姿が描かれています。彼らの内、大壇口で25名が果敢に戦うも7月29日に落城してしまうことになります。
「二本松少年隊像」
「坂道」を登り切って右折れした所にあるのが1982年に復興された「箕輪門」で、その南側には「二重櫓」、北側には小さな「多門櫓」があり門を監視する体制を整えています。しかし実際には、「二重櫓」は存在しなかったので模擬「二重櫓」となります。
正面の坂道
正面の坂道(西側から見る)
坂道沿いの石垣
復興「箕輪門」
模擬「二重櫓」
「箕輪門」の往時は「櫓門」で、城下の「箕輪村」にあった樫の木を使用したのでその名前が命名されたそうです。櫓台や門脇の石垣には多数の「矢穴」が残る石を使用しています。
復興「箕輪門」
「箕輪門」内からは、先の三建造物が良く見え、土塀の裏側の控柱も変わった形で支えています。
左から模擬「二重櫓」、復興「箕輪門」、復興「多門櫓」
復興「土塀」裏の「控柱」
「塀重門」跡の石垣が残っていますが、そこには門は建てられてなかったらしく、入って左折れで石段を上がっていきます。石段の両脇には「土塀」は築かれないで「赤松」が植えられていてそれが現在では大きく育っています。
「塀重門」跡
「塀重門」跡からは赤松が植わる
復興「多門櫓」
上がり切った前は大きな広場になっていてそこが「三の丸御殿」等があった「三の丸」跡です。そこから少し上がった所は「三の丸上段」となります。そこで、再び雨に襲われ仕方なく、丁度秋の「菊祭り」用の製作中の屋形下に退避して再び雨宿りです。
「三の丸下段」跡
「三の丸上段」跡
「三の丸上段」の石垣(打込接・布積み)
15分位して少し雨脚がマシになり再出発。
このお城には庭園があちらこちら作庭されていて、まずは「本町谷(ほんちょうだに)御庭」です。「光重」から五代「高寛」までに整備された「池泉回遊式庭園」で中心の池は「霞池」と呼ばれ小さなスイレンが花を咲かせていました。右手の小山上には「洗心亭」の茶室も見えますが、後程に尋ねます。
「本町谷(ほんちょうだに)御庭」
「本町谷(ほんちょうだに)御庭」の「霞池」(右上に「洗心亭」)
「本町谷(ほんちょうだに)御庭」の「霞池」ではスイレンが花を咲かせます
「るり池」 のほとりには、横から見ると布袋さんの姿に見える石に落ちる「布袋滝」や、樹齢350~400年で高さ12mの「イロハカエデ 」、樹齢350年の赤松「霞ケ城の傘マツ」は市の指定天然記念物になっています。
「るり池」
「布袋(ほてい)滝」
高差12mの「イロハカエデ」
樹齢350年の赤松「霞ケ城の傘マツ」
そこから山道を上がっていきますが途中滝があったり、「光重」の命で、城内と城下に防備の為に敷設された全長18kmの用水堀「二合田用水」もその間を流れています。
「土塁」
「二合田用水」
二段構えとなっている「新城館(しんじょうだて)」跡は、中世の「畠山時代」の本城だったらしく、「会津城の支城時代」には、城代が二人置かれ東館と西館に居城していてこの場所は西館だったそうですが特に遺構はありません。下段には「智恵子抄碑」が、上段は、砲術道場で学ぶ少年隊士が稽古を行った場所で「少年隊士顕彰碑」が建っています。
「新城館(しんじょうだて)下段」跡への階段
「新城館(しんじょうだて)下段」跡(「智恵子抄碑」)
「新城館(しんじょうだて)上段」跡(奥に見えるのが「少年隊士顕彰碑」)
「新城館」跡の北東の「土塁」越えした場所に、立派な「搦手門」の台石垣が石段を伴って立ちます。「蒲生家時代」には掘立柱形式でしたが、「加藤家時代」に礎石遣い形式に替えられたようです。
「新城館」跡の北東の「土塁」
「搦手門」跡
「搦手門」跡
次は「本丸」跡へ参りますが、次回のブログ「後編」でお届けします。
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