「お城」の「天守台シリーズ」第32弾は、「桑名城」です。
現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。
「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。
「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。
「桑名城」(三重県桑名市)の基礎となるお城が、1591年に「一柳直盛」によって築かれました。その後入城した「氏家行広」の時に、「神戸(織田)信孝」が「神戸(かんべ)城」に築いた「天守」を「桑名城」へ移築しました。
「関ヶ原の戦い」後は、「本多忠勝」が10万石で城主となり、櫓50基余りも築く近世城郭に大改修しました。
1617年に城主となった「(久松)松平定綱」の時にも大改修を行い、「本丸」の北東隅に「四重六階」の複合式「天守」を築きました。そして、「神戸城天守」を移築した「天守」は、そのまま「神戸(かんべ)櫓」として残されました。
「桑名城 四重六階天守」があった頃の絵図(城内にて掲出分)
1701年に城下の大火によって四重「天守」を含む多くの建造物が焼失しましたが、その後「天守」は再建されず「本丸」の南東隅に建つ「辰巳櫓」が当城のシンボルとして扱われました。幕末まで聳えていた「辰巳櫓」も、維新時に降伏の印として「新政府軍」に焼き払われてしまいました。
「四重六階」の「天守台」は、規模を縮小して「打込接」の石垣を組み直し再現し、その上には明治20年築の尖塔のような「戊辰殉難招魂碑」が立っています。
規模が縮小されて積み直しされた「桑名城 四重六階天守」の「天守台」(正面、南側から)
規模が縮小されて積み直しされた「桑名城 四重六階天守」の「天守台」(台上の尖塔は「戊辰殉難招魂碑」)
台上の尖塔「戊辰殉難招魂碑」
規模が縮小されて積み直しされた「桑名城 四重六階天守」の「天守台」(西側から)
規模が縮小されて積み直しされた「桑名城 四重六階天守」の「天守台」(南西隅)
規模が縮小されて積み直しされた「桑名城 四重六階天守」の「天守台」(南西方向から)
元「天守」であった三重の「神戸櫓」跡は、現在、石段5段の登り口から盛り土と周囲に少しの石が残され、台上には松の木や低木の植木が植えられ休憩所が設けられています。
「桑名城 神戸櫓(元天守)」台の上り口
「桑名城 神戸櫓(元天守)」台(「本丸」側から)
「桑名城 神戸櫓(元天守)」台(「吉の丸堀」越しに「二の丸」跡からのぞむ)
「桑名城 神戸櫓(元天守)」台(「吉の丸堀」越しに「二の丸奥平屋敷」跡からのぞむ)
一方「天守」が焼失してから幕末・維新まで天守代用としてシンボルとなっていた「辰巳櫓」台は、約15段の石段で上る高さがある盛り土となっていた周囲には石垣の石でしょうか、それによって取巻かれています。台上には、新政府軍或いは桑名藩のモノか不明ですが「大砲」が置かれています。
「桑名城 辰巳櫓(天守代用)」台の上り口(「本丸」跡西側からのぞむ)
「桑名城 辰巳櫓(天守代用)」台(「本丸」跡北西側からのぞむ)
「桑名城 辰巳櫓(天守代用)」台を取巻く石垣の一部か?(「本丸」跡北側からのぞむ)
「桑名城 辰巳櫓(天守代用)」台(「吉の丸堀」側からのぞむ)
「桑名城 辰巳櫓(天守代用)」台上に置かれた「大砲」
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