久々の1泊2日のお城廻りを、3月16日(火)~17日(水)にかけて行ってきました。
今回は、全て三重県内のお城で登城順に「鳥羽城」→「北畠氏館」→「田丸城」→「松阪城」→「久居陣屋」→「津城」→「神戸城」の7城です。
「北畠氏館」以外は、私が約23~24年前に、名古屋へ転勤になって「お城めぐり」を初めた頃に訪問したことがあるお城で、殆ど久しぶりでしたが、割と覚えているのには驚きました。
ただ、当時はまだ「お城巡り」を始めたばかりでしたので、主要部分しか見ていないし写真も現在のようにデジカメでなくふんだんに撮ることもままならなかったので、今回は凄く詳細な所まで見ながら写真を850枚近くも写してきました。
3月16日(火)は、上本町から近鉄の「急行」で「五十鈴川」乗り換え「鳥羽」まで約2時間半を、車窓から春の眺めを楽しみました。
まず最初に訪城する「鳥羽城」(三重県鳥羽市)の城主について簡単に触れておきますと、「九鬼水軍」として名をはせた「九鬼嘉隆」が築きますが、関ケ原の合戦では親「嘉隆」と子「守隆」が東西に分かれて戦い、東軍に参加した「守隆」が家名を残し初代藩主となりました。
しかしながら、お家騒動を起こして「三田藩」へ移封となった後は、「内藤家」→「幕領」→「土井家」→「大給松平家」→「板倉家」→「戸田松平家」と目まぐるしく変遷し1725年に「稲垣家」が入封してやっと藩主が落ち着きます。
模擬ですが壮観な眺めの「七段壁」(「三の丸広場」より)
海側から描かれた「鳥羽城絵図」(「三の丸広場」に掲出)
鳥羽城縄張図(観光パンフより)
「鳥羽駅」を下車して数分で斜め右に丘が見えてきて、そこが「鳥羽城本丸」跡ですが、そこへは直行しませんでした。
「岩崎通り」にある「唐人門」と「相橋口門」の各跡を確認したかったのですが、いずれも碑や遺構らしきモノがなかったので、「妙慶川」に架かる「相橋」を渡り「大山祇神社」から城山公園へ上がっていきました。
「唐人門」跡付近
「相橋口門」跡付近と「相橋」(岩崎通りから「城山公園」をのぞむ)
上がる途中には「家老屋敷」跡だったと思われ西側に白壁の土塀が建つ広場に出ました。その西側下が「家老屋敷跡石垣」が残っているとの情報を得ていましたので見にいきますと、見事な「野面積み石垣」が平面でへばりついていて、その南側にかけても残っています。
「家老屋敷」跡西側の「野面積み石垣」(右は「市民文化会館」)
「家老屋敷」跡西側の「野面積み石垣」と土塀
上の石垣がある「家老屋敷」跡(北西方向、石垣は左の土塀下)
そこから「城山公園」となっている広場に上がり、更に南側の坂を上った左側(東側)が大きく削られ絶壁になった場所に出ますが、そこから見下ろす七段の石段は迫力満点です。この真下が「三の丸」跡となり、逆に「三の丸広場」から見上げることもできますので後述します。
「家老屋敷」跡の「城山公園」(南側から北方向)
七段の石段を上から見る
その隘路を抜けた所が「本丸」跡になりますが、その入口から西側にかけて当時の荒々しい「野面積み」の石垣が壁面にへばり付いています。特に隅部の石積みは、算木積みが未発達であるのが良く確認でき、水軍「九鬼家」時代の石垣ではないかと思われます。
「本丸跡」西側の野面積み石垣
「本丸跡」西側の野面積み石垣の隅部は未発達
「本丸跡」西側の野面積み石垣(南側から北方向)
昔の絵図によりますと(「本丸御殿」発掘調査場所に掲出)、「本丸」北西に三重の「望楼型天守」が建ち、その南には「本丸御殿」が、そして周囲には四基の「二重櫓」と三基の「平櫓」が建てられていました。
「本丸」とそれを取り巻く曲輪の絵図(「本丸御殿」発掘調査説明書きに掲出)
「本丸」跡(北側から南方向)
「天守」跡
「天守」復元図(「天守」跡に立つ説明版より)
「本丸御殿」跡
また山麓には、出枡形の三棟の「門」(相橋口門、横町口門、藤口門)や、「大手水門」を始めとする4棟の「水門」も描かれていますので、かなり立派な海城だったと思われます。
廃城城、「本丸」上には小学校が建てられてたので、天守台は削平され、本丸御殿の礎石や溝、井戸等も埋没してしまっていましたが、小学校が移築しその後の発掘調査では、「大井戸」跡や石垣、溝等が発掘されたそうです。
埋め戻された「大井戸」跡
発掘調査で発掘された「井戸」跡
「本丸」跡からの眺めは素晴らしく、「ミキモト真珠島」が陸地と繋がり、その南には「鳥羽水族館」が海岸と近鉄志摩線との間の細長い敷地に横たわっています。「鳥羽水族館」の場所が「二の丸」跡ですので後述したいと思います。
「ミキモト真珠島」(「本丸」跡より)
「二の丸」跡に建つ「鳥羽水族館」
近鉄志摩線の車両(「三重交通」時代の復刻色で走る車両)
「本丸」跡の南側にも「野面積み」の石垣が残っていて、こちらには「排水溝」として使用された大きな空洞が見られます。
「本丸」跡南西側の「野面積み石垣」
「本丸」跡南側の「野面積み石垣」
「本丸」跡南側の「野面積み石垣」内に開く空洞は「排水溝」
西側に降り立った所が、現在は「錦町通り」になっていますが、「横町口門」から南東にかけて堀替わりの「蓮池」があった場所です。「横町口門」付近には碑や遺構等もありませんでした。
「横町口門」跡付近(「本丸」跡を見上げる)
「堀」替わりの「蓮池」だった現在の「錦町通り」
また、そこから「蓮池」跡の「錦町通り」から左斜めに道路が分離している所には「藤口門」があった場所ですが、こちらも碑や遺構は見られませんでした。ただこちらから見上げる「本丸」跡はかなり険しく段々となっていることが確認できました。
「藤口門」跡付近
「藤口門」跡付近から見上げる「本丸」跡
「本丸」跡の麓を南側から東側にかけて廻り込む道が北に向かって延びていますがこの道が「大手道」です。「近鉄志摩線」沿いに北上した左手が「三の丸」跡で、現在は初代藩主の「九鬼家」の家紋「左三つ巴」の陣幕を飾った「三の丸広場」がお城の玄関口として整備され資料なども置かれています。
「三の丸」跡
「三の丸広場」
そこから見上げる「七段の石段」は模擬だそうですが非常に壮観、あの「岩村城の六段壁」を思い出させるくらいの迫力があります。当城の絵図では段々の曲輪が配備されていたことを見ることができますので、それがデフォルメされて観光用として整備されたのだと思います。
壮観な模擬「七段壁(石段)」(「三の丸広場」)
壮観な模擬「七段壁(石段)」(「三の丸広場」)
壮観な模擬「七段壁(石段)」(「三の丸広場」)
「鳥羽城」の鳥瞰図(「三の丸広場」に掲出)
この「三の丸」跡の東側「近鉄線」と「国道」越しに横たわるのが「鳥羽水族館」で、その敷地が「二の丸」跡だった場所で「二の丸御殿」が置かれていた場所です。
そして、海岸に向けては「大手水門」と「大手脇水門」が並んでいて、「大手門」が海に面している極めて珍しいお城となっていました。
現在、国道沿いの「大手水門」付近は、「鳥羽水族館」の職員出入口付近で、案内板も設けられています。
「城内から見た「大手水門」付近の絵図(「三の丸広場」掲出)
「海側から見た「大手水門」付近の絵図(「三の丸広場」掲出)
「大手水門」跡付近から「ミキモト真珠島」を眺める
「二の丸」跡から「本丸」跡を見上げる
さて、次の目的地「北畠氏館」へ向かうにあたり、松阪まで「JR参宮線」を利用しますが列車までの時間があまりなく、駅でサンドイッチを購入して「快速みえ」内で昼食を取ることにしました。
JR東海の「快速みえ」(「鳥羽駅」にて)
「快速みえ」は、JR東海のディーゼル車で、2両編成で自由席は乗車賃だけで乗車できますが車内は特急並みの座席で、サンドイッチも車窓を眺めながら美味しくいただけ快適でした。
JR東海の「快速みえ」の車内
次回のブログでは、「北畠氏館」をお届けします。
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