今回は、関東の北部を守護する「譜代大名」のお城「高崎城」(群馬県高崎市)を訪問します。
「高崎城」の歴史と城主について触れておきます。
1420年頃に、「和田家」によって「和田城」が築城されますが、この地をめぐり、「上杉家」「武田家」「北条家」が凌ぎをけずり激戦が繰り返されました。
「和田家」は当初、「上杉家」に従軍するも、「武田信玄」が「箕輪城」を攻撃すると「信玄」に従属、「武田家」滅亡後には「織田家」を経て「北条家」に鞍替えをしていきます。
しかし、「豊臣秀吉」による「小田原攻め」の時に、「和田城」は「前田利家」と「上杉景勝」の攻撃で落城して廃城となりますが、1597年に「徳川家康」の命で徳川四天王の一人「井伊直政」が「和田城」の跡地に「高崎城」を築き、「直政」は「箕輪城」から「高崎城」に移ります。
その後は、譜代大名が次々と入れ替わりました。「酒井家次」「松平(戸田)家」「松平(藤井)家」「安藤家」を経て「松平(大河内)家」「間鍋詮房(まなべ あきふさ)」、再度「松平(大河内)家」が入封し、その後は幕末・維新まで10代が続きます。
当城の「縄張り」は、南北に細長い「本丸」は三方向に「内桝形」の「虎口」を設け、特に東方向には「梅の木曲輪」が「二の丸」側に出張り門で繋がり、更に「二の丸」内の「東中門」先に馬出を置いて「三の丸」に繋げる工夫がされた複雑な縄張りとなっています。
「本丸」北側には「榎曲輪」を設け、西側には「本丸」の背後を守る「西曲輪群」とその南側にかけては「西の丸」が設けられていました。
「三の丸」の東側には「大手門」が、「三の丸東門」南側には「横矢桝形」が施されかなり守備力の高い縄張りになっていました。
さて「高崎城」は、廃城令後もその敷地を「歩兵第15連隊駐屯地」として残され、天守代用の「御三階」前で、歩兵隊が演習をしている写真を見ることができます。
乾櫓と三の丸東門(西側より)
古写真 御三階(高崎市立中央図書館より)
「御三階」は、「本丸」の西側に建てられ、三層三階の「層塔型」で、「千鳥破風」が各階施され、最上階には「華頭窓」や「内法長押(うちのりなげし)」の装飾が施されていたようです。
「本丸」の四隅には、二重の「艮櫓」「巽櫓」「坤櫓」「乾櫓」が土塁上に建てられ、「乾櫓」は廃城後民家に払い下げられ納屋として使用されていましたが、1979年城内の大手門跡脇へ再移築されました。
旧本丸乾櫓(裏より)
旧本丸乾櫓
旧本丸乾櫓(裏南側より)
縄張りは、「本丸」を烏川を背に「梯郭式」曲輪であり、東側に「二の丸」が取り巻き、そのまた東側に「三の丸」が施されました。「本丸」から「二の丸」へは「内枡形」の虎口が設けられ「梅の木曲輪」と呼ばれていました。
曲輪絵図
現在の城跡周辺案内図
また、「本丸」の北側には「榎曲輪」が、南側には「西の丸」が、西側には「烏川」との間に「本丸」の背後を更に守る「西曲輪群」が置かれていました。
次回(後編)へ続きます。
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