「春恒例のお城巡り」の最終登城のお城は、「続・日本100名城」の「備中高松城」(岡山県岡山市北区)です。
元々は「平城」で備中高松駅から平坦な道を10分程歩くだけで辿り着け蓮池がある公園ですので、登城ではなくて散歩先の城跡という感じでした。
高松城全景想定図
続・日本100名城に選定された理由は何かなーと考えてみました。
「羽柴(豊臣)秀吉」が「織田信長」の命を受けた中国攻めの際に、「毛利家」の前面に立ちはだかった城主「清水宗治」のお城「高松城」を水攻めする為に約3㎞の堤を築くという当時では大土木工事が推進されたこと、お城を水浸しにして城主「宗治」に戦意喪失させ城を明け渡すことと「宗治」を切腹に至らしめたということ、更には、それを成し遂げた「秀吉」は、「本能寺の変」で殺害された「信長」の敵討ちの為にとんぼ返りを決行した等の背景がある「高松城」ですので、歴史的事実の意味も含めて選定された「お城」ではないかと思います。
お城の手前に流れる川には「船橋」という名前の橋があります。これは、当時「高松城」は周囲が沼地で、周囲とお城を繋ぐ道には、戦闘になった際には橋をすぐに無くせるように、船を並べて板を渡す「船橋」だったようです。
船橋跡
それを渡ると、「二の丸」「本丸」を抱えるような形で東側から北側、北西側にかけて「三の丸」が位置します。
三の丸跡絵図と解説
「船橋」を渡ってすぐ東側には、「清水宗治自刃の地」があり供養塔が立ちます。水攻めで水に覆われたこの場所で、秀吉が手配した小船に乗った「宗治」は切腹をしました。切腹の仕方が素晴らしいと「秀吉」が褒め讃えていたのを、だいぶ前のNHK大河ドラマ「太閤記」だったか?で見た記憶が蘇りました。
「清水宗治自刃の地」があり供養塔
その近くには、「ごうやぶ」といって一本木が植わっていますが、「宗治」切腹の前に、草履とりと口取りであった家臣が差し違えて亡くなった場所だそうです。
「ごうやぶ」
「三の丸」跡は、殆どが田畑となっています。二の丸」跡の南端には海鼠壁が目立つ「高松城跡公園資料館」が建ちますが、なんと閉館時間が15時ということで見学が叶いませんでした。
三の丸跡
高松城跡公園資料館
「二の丸」跡の西側には「蓮池」がありますが、「堀」だったかどうかは判りませんでした。
二の丸跡から蓮池・公園をのぞむ
蓮池
二の丸跡から本丸跡をのぞむ
いよいよ「本丸」跡ですが、ここは遠くから見ると木々が茂っています。そこには、「清水宗治首塚」の供養塔が立ちます。元々は、「秀吉」が陣を構えていた「石井山」に「秀吉」が供養塔を立てさせたものを、明治時代になり「本丸」へ移されたようです。
本丸跡絵図と解説
本丸想定図
本丸跡をのぞむ
本丸跡内の清水宗治首塚
秀吉本陣があった石井山
「本丸」跡から更に北西に進むと再び「三の丸」跡に辿り着きます。ここは「家中屋敷」であったらしいですが、ここには「清水宗治胴塚」があります。「宗治」切腹後に家臣がこの地に遺体を埋めたと言われています。
駅までの帰りすがら、水攻めの際に築いた「堤」が備中高松駅から近い所に一部遺構が残るとの情報をパンフレットで見つけ、そこを見ないと・・・との思いで、1列車遅らせて訪問しました。
「最上稲荷」の「大鳥居」を潜り抜けて暫く歩むと、「築堤」跡公園がありました。ほんの一部ですが、「堤」だったことが良くわかる遺構でしたので、帰り際に気が付いて訪ねることができて非常に得した気分になり、揚々として駅まで戻ることができました。
龍王山にある最上稲荷の大鳥居
水攻め築堤跡 (当時は、長さ3㎞、基部底24m、高さ8m)
水攻め築堤跡
水攻め築堤跡
水攻め築堤跡の碑
「備中高松城」はお城としての遺構らしきものは殆ど見られませんでしたが、「秀吉」のその後、天下統一へ向けた分岐点とスタート地点となったお城を訪れることになり大変良かったと思います。
最後に、「備中高松城」の遺構と言われている「長屋門」が、京都市内の「遣迎院(けんごういん)」(京都市北区鷹峰光悦町)山門に移築されています。水攻めに遭ったのにも拘わらず、京都まで運んで再利用されていることに驚きです。
遣迎院(けんごういん)」(京都市北区鷹峰光悦町)山門
今回の「春恒例のお城巡り」は、前半が曇天でありましたが雨には祟られず、また二度目の訪問となった「岩国城」「広島城」「福山城」では、詳細な遺構まで見ることができて満足至極でありました。
ただ、ブログにも記載しましたが、「吉田陣屋」の移築櫓と「新高山城」の登城が、いずれも時間切れで見ることができなかったことを後悔しています。また機会があれば、訪れたいと思います。
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