本日は、「岡城」(大分県竹田市)に登城したいと思います。
「岡城」の歴史と城主についてまず触れておきたいと思います。
「岡城」の城主となった「中川家」についてですが、戦国時代末期に、「中川清秀」が摂津の有力者となり、その後「清秀」の息子「秀政」の妻に「織田信長」の娘を迎えることによって、「信長」の傘下に入ります。
本能寺の変以後は、「清秀」は「豊臣秀吉」に従いますが、賤ケ岳の戦いで戦死、息子の「秀政」は朝鮮出兵で戦死した為に、「清秀」の弟「秀成」が「中川家」を継いで、関ケ原の戦いでは東軍についたので「岡城」は安堵され、江戸時代を通じて豊後の竹田を治めました。
「岡城」は、「大友家」の領地であった「岡城」に対して、薩摩の「島津家」が豊後に攻めてきましたが、「大友家」の重臣「志賀親次」の指揮で再三にわたって島津軍を撃退したので、「豊臣秀吉」からは褒賞を受けました。しかし、「大友家」が「秀吉」から朝鮮出兵の働きに対する責めを負った為に「親次」は「岡城」を去ることになりました。
縄張りは、325mの天神山の上に東西2.5㎞、南北0.4㎞の幅で横たわる典型的な山城で、「中川家時代」に縄張が西側に拡張され、本丸、二の丸、三の丸、三の丸御殿、櫓を造営しました。
本丸には、「御三階櫓」を建てて、「志賀家時代」に大手門の役割を担っていたのが「下原門」でしたが、「中川家時代」には、「近戸門」を新たに造って、西側に「大手門」を変更しました。
更に、二代「久盛」の時に「清水門」が造られ、三代「久清」の時には西の丸を築いて、重臣屋敷を吸収した「西の丸御殿」を造営しています。
1771年の大火で城郭建築物の大半が焼失、更には1871年の廃城令ですべての建造物が破却されてしましましたので、移築現存している城郭建築物は皆無となっています。
岡城全景絵
それでは、現在どのような「兵(つわもの)どもも夢の跡」となっているかを、登城口である大手門方向から、尋ね歩いていきます。
その前に、この「岡城」は、「滝廉太郎」が少年時代に遊び場だった場所で、「荒城の月」の作曲を構想したお城として有名です。因みに、その作詞は「土井晩翠」が故郷の「仙台城」で想いを描いた詞とのことです。城下町には、「滝廉太郎」が住んでいた家も残されています。
滝廉太郎像(二の丸跡内)
私の時代の音楽教科書には必ず掲載されていましたが、現在の音楽教科書には載っていないので、知る若い人は殆どいないのでは・・・と思います。
現在は売店が建っている「鉄砲方詰所」跡をスタートしますと、長い登り道があり、その片方には、蒲鉾型石塁がそそり立つ大手門石垣に向かって続きます。
かまぼこ型石塁(右上に大手門の石垣が見える)
そびえ立つ大手門石垣
どんどん登りますと、「大手門」跡の石垣に辿り着きますが、その大手門石垣の右側には、車軸築石積みが残ります。大きな石が車の軸に見えることから、そのような呼び方になっています。所謂鏡石です。大手門は、左側に折れる枡形になっています。
大手門石垣(右側に車軸築石積みが見える)
大手門の桝形
古大手門跡石垣(朝日が眩しいとの理由で加藤清正が現地へ移転させた)
大手門からは、東手に向けて比較的平坦な道があり、そこを進むと「朱印状倉」跡、「中休憩所」跡、「家老但見屋敷」跡、「賄方」跡が、平坦な土地に拡がります。
朱印倉跡(奥は西の丸御殿跡)
家老但見屋敷跡
但見(家老)屋敷石垣と賄方跡
次回のブログ②では、更に東に拡がる本丸、二の丸、三の丸へ進みたいと思います。
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