本日から、久松系松平家のお城「松山城」を訪問します。松山城と呼ぶお城は、日本全国で数箇所ありますので、区別するのに伊予の国の松山城ということで「伊予松山城」と言われることがあります。あと、高梁城とも言われ天守閣が重要文化財の「備中松山城」、山形県酒田市にあり松嶺城とも言われる「出羽松山城」、織田信長の子孫が居城したが柏原陣屋へ移封し廃城となった「宇陀松山城」、そして数年間だけ藩として存在した埼玉県の「武蔵松山城」がありました。
小天守(復元)・筋金門東塀(重文)・天守(重文)・二ノ門南櫓(重文)
松山城は、関ケ原の戦いの後に、徳川方に加勢した外様大名の加藤嘉明が入封して城下町を形成しましたが会津へ移封、その後蒲生氏郷の子忠知が入りましたが嗣子なく断絶しました。
加藤嘉明銅像(勝山ロープウエイ・リフト乗り場前)
松山城櫓の鯱鉾(ロープウエイ・リフト駅構内)
そして、「今治城」の紹介の時に触れましたが、1635年に久松系の松平定行が、桑名城から15万石で入城し、幕末まで16代続きました。ただ、江戸時代の初期には経済的に豊かでしたが、1660年から80年にかけて続いた干ばつや洪水による飢饉によって、それ以降は財政難が続いたようです。
「松山城」は、勝山の山頂に本丸を置き、麓に二の丸と三の丸を置く平山城です。そして、姫路城や津山城とともに、日本三大平山城となっています。姫路城と同様に、天守閣を中心に小天守、櫓を多聞櫓で繋いだ構成である連立式天守閣となっています。
勝山の山頂に建つ天守と小天守等本壇(市役所前から)
ただし、本壇の天守内曲輪に建っている三層三階の大天守閣は現存で重要文化財ですが、小天守閣を始め、北隅櫓、南隅櫓、それを繋ぐ十六間長屋、天守内曲輪に入る筋金門と内門、それらを繋ぐ多聞櫓と玄関・玄関多聞などは全て焼失したものを復元しています。
1933年頃までは、本丸に40棟の建物が現存していましたが、1949年迄に失火含めて21軒までになってしましました。しかし現在は復元が進められて、22棟が現存城郭建造物21棟の中で存在感を発揮しています。
現存の城郭建造物は、姫路城、二条城に次いで多く残っています。しかし、復元した建造物含めた数を見ますと、姫路城に次ぐ建物群を眺めることができるお城となっています。
麓からは、ロープウエイ、リフト、徒歩の3通りの方法で、本丸まで上がることができます。私の場合、リフトで上り下りしましたので、帰りには松山市街をシッカリと眺めることができました。徒歩による上り道は、復元された二の丸から、「登り石垣」と呼ばれる、日本のお城ではあまりお目にかからない麓から本丸まで積まれた石垣列(※)を眺めながら登ることができるので、貴重な体験になると思います。
(※)他に見られるお城に、彦根城、洲本城、米子城があります。
本丸と二の丸多門櫓(三之丸から)
二の丸内奥にある本丸への登り口
勝山から降りるリフト
いよいよ、本丸に登城して、本丸本壇を目指していきたいと思いますが、今宵はここまでといたしまして、明日に本丸大手門跡からスタートします。






