本日は、久松系松平家のお城であります「今治城」(愛媛県今治市)を訪れます。

 

山里櫓、山里門、模擬天守

 

1635年まで今治城の城主であった藤堂高虎が加増されて領地替えとなった後に、桑名城から転封となった久松系の松平定行が15万石で「松山城」に入ると同時に、定行の弟定房が、長島城から「今治城」に転封となり入城しました。従って、松山から今治の領域までが、久松系松平家で治められることになりました。

 

前述の松平定行とは、徳川家康の異父弟である松平定勝の子であり、定勝系久松松平家宗家の2代目で、刈谷城内「椎の木屋形」に住まいがあった於大の方が祖母で、徳川家康の伯父にあたります。

 

今治藩は、その後幕末まで久松系松平家によって安定した統治が続き、産業も塩田開発の推奨と木綿や甘藷(かんしょ)によって、藩の財政を下支えしました。

 

「今治城」と言えば、藤堂高虎について触れずにはいられません。

 

というのも、高虎は、関ケ原の戦い後に宇和島城に今治を加えて20万石に加増されましたので、近世城郭としての今治城を築城し城下町建設も行いました。

 

城内に立つ籐堂高虎像

 

その際、当城を海城にした堅固な守りと、海を最大限に活用できる舟入を造って、現在では日本三大水城と言われます。因みに、三大水城とは、今治城、高松城、中津城(大分県中津市)です。

 

舟入跡(現今治港内港)方向

 

また天守は、破風がない層塔型天守を開発して建造しました。

 

高虎が伊賀・伊勢国への移封の際に、この今治城の天守を伊賀上野城に移築しようと解体しましたが、丹波亀山城が天下普請で築城されことになりましたので、高虎は徳川家康にこの天守を献上して、亀山城へ移築したと言われています。

 

幕末に、亀山城の古写真に破風の全くない層塔型天守が写っていますが、この天守が、高虎が献上したモノだと言われています。

 

丹後亀山城天守古写真(亀岡市文化史料館掲出より)

 

現在のお城は、立派な五層六階のコンクリート造りの天守が建っていますが、前述したように、破風が全くない層塔型天守が、亀山城へ移築されるまでの数年間建っていただけで、その後天守はなく、その代用として北隅櫓があったとされています。

 

破風がいっぱいの五層六階コンクリート造りの模擬天守

 

城内には、御金櫓、山里櫓、鉄御門、多聞櫓などが外観復元されていて、美しいフォルムが見られます。

 

復元金櫓(北東面)

鉄御門の渡櫓部分

 

現状の「今治城」については、次回のブログで詳細に見ていきたいと思います。

 

 

 

 

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