アラレの裁判の途中、以下の言葉を読みました。
「裁判官は真実を知るために判決を書くのではなく、妥当と思う形に合わせて事実を再構築する」
それを読んだとき、心の奥底にあった違和感が確信に変わりました。私は、真実を求めて裁判に臨んでいたけれど、それはこの場では場違いだったのだと。
専門的な医学知識、論理的な整合性、証拠の一貫性。それらを丁寧に積み上げていきました。けれど、その過程で私が突き当たったのは、証拠より「心証」がものをいうという現実でした。
医療訴訟の多くは、「前例(判例)」を重視し、過去の判断に沿う形で処理されていく。裁判官は、個々のケースに深く立ち入ることなく、「おおむね妥当」とされる着地点に向かって心証を固めていく。
いくら真実、証拠を示しても、それが「心証」にそぐわないと判断されれば届かない。
「事実認定のゆがみ」「出世のための判決」「スピード優先の制度」
そこに描かれているのは、法廷という場の構造的な硬直。そして、裁判官個人の資質ではどうにもできないシステムの問題です。
あれから10年余りが経ちました。でも、変わったでしょうか?
私が経験した裁判所は、何一つ変わっていないように感じました。
裁判に正義を求めたことは、いま振り返れば「無垢」だったのかもしれません。けれど、もし私が沈黙していたら、誰も気づかないまま愛犬の命は消えていただけだった。
裁判の結論は、もしかしたら世間から見れば「負け」かもしれません。でも、私は記録を残した。資料を集め、専門家の意見を聞き、命を軽く扱った社会に対して疑問を投げかけた。
その一つひとつが、誰かの「声を上げたい」に繋がることを、私は信じたいのです。
でも、そのことを知ったからこそ、これから声を上げる人が、無理な期待で傷つかないように。
そして、声を上げようとするその人を、誰かが支えられるように。

