裁判官の心証がすべて決まる日本の裁判所 | グルコサミン博士のブログ

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アラレの裁判の途中、以下の言葉を読みました。

 

「裁判官は真実を知るために判決を書くのではなく、妥当と思う形に合わせて事実を再構築する」

それを読んだとき、心の奥底にあった違和感が確信に変わりました。私は、真実を求めて裁判に臨んでいたけれど、それはこの場では場違いだったのだと。

 

専門的な医学知識、論理的な整合性、証拠の一貫性。それらを丁寧に積み上げていきました。けれど、その過程で私が突き当たったのは、証拠より「心証」がものをいうという現実でした。


医療訴訟の多くは、「前例(判例)」を重視し、過去の判断に沿う形で処理されていく。裁判官は、個々のケースに深く立ち入ることなく、「おおむね妥当」とされる着地点に向かって心証を固めていく。

いくら真実、証拠を示しても、それが「心証」にそぐわないと判断されれば届かない。

 
元裁判官・瀬木比呂志さんが10年前に書かれた『絶望の裁判所』という本を読んだとき、私はまるでそこに自分の裁判が書かれているかのように感じました。

「事実認定のゆがみ」「出世のための判決」「スピード優先の制度」

そこに描かれているのは、法廷という場の構造的な硬直。そして、裁判官個人の資質ではどうにもできないシステムの問題です。

 

あれから10年余りが経ちました。でも、変わったでしょうか?
私が経験した裁判所は、何一つ変わっていないように感じました。

 

裁判に正義を求めたことは、いま振り返れば「無垢」だったのかもしれません。けれど、もし私が沈黙していたら、誰も気づかないまま愛犬の命は消えていただけだった。

裁判の結論は、もしかしたら世間から見れば「負け」かもしれません。でも、私は記録を残した。資料を集め、専門家の意見を聞き、命を軽く扱った社会に対して疑問を投げかけた。

その一つひとつが、誰かの「声を上げたい」に繋がることを、私は信じたいのです。

 
「裁判所は真実を求める場ではない」。それはあまりに冷たい現実です。
でも、そのことを知ったからこそ、これから声を上げる人が、無理な期待で傷つかないように。
そして、声を上げようとするその人を、誰かが支えられるように。