裁判官の心証がすべて決まる日本の裁判所 | グルコサミン博士のブログ

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私のとても元気だった愛犬アラレが埼玉のとある専門病院の検査後、間もなく小さな命が亡くなってしまいました。

獣医療の現場で起きたあまりに突然な死。納得のいかない説明、矛盾のある記録、不透明な判断。


私は飼い主として、命の重さを伝えたかった。問いただしたかった。
しかし、裁判という道を選んでから、私の前には「見えない壁」が立ちはだかりました。

 

一つ目の壁は、「情報の壁」でした。


 

医療記録は専門用語の連続。診療の是非を問うには、医療知識、法的知識、そして証拠が必要でした。
つまり、一般的医学の素人の飼い主が挑むには、あまりに高すぎるハードルがそこにあったのです。

二つ目の壁は、「裁判所の論理」でした。


 

私は裁判を通じて責任の所在を明らかにしたかった。
しかし、実際の裁判は、事実そのものではなく、「裁判官の心証」で決まる世界。
医療過誤の証明責任は原告側にあり、しかも動物医療における前例やガイドラインは極めて乏しい。
一部の明らかな過失(手術中の異物混入、明白な誤診など)以外は、認められにくい現実があります。

三つ目の壁は、「社会の沈黙」でした。


 

ペットの医療被害は人間の医療事故と違い、注目されにくい。
動物のことだから、そんなことで裁判までするの?という無理解も感じました。
さらに、和解に応じれば、事実を話すことさえ禁じられる「口外禁止条項」が課されるのが通例です。

弱者が声を上げようとするとき、それを封じる仕組みが社会の至るところにあります。
それでも言わなければ、また同じことが繰り返される
そう思って進んだ裁判。しかし、勝訴は叶いませんでした。

これぐらいの過失があっても裁かれない!だからここままで問題ないという非常に怖い獣医療の現状。
 

裁判の過程で出会った言葉があります。

「裁判官は真実を知るために判決を書くのではなく、妥当と思う形に合わせて事実を再構築する」

この言葉を聞いて、私は愕然としました。そして、ようやく理解しました。
あの場に「真実」を求めてはいけなかったのだと。

それでも、弱者が声を上げられない社会は、やがて誰も安全に生きられなくなります。

私は、アラレのことを、忘れません。
この経験を通して見たもの、感じたこと、学んだことを、これからも伝えていきたいと思っています。

どうか、同じように苦しんでいる誰かの心に届きますように。