静かに、けれど確かに命が消えていく瞬間を、私は目の前で見つめました。
愛する家族を失い、その命の終わりが誰かの過ちだったかもしれないと気づいたとき、私はただ真実を知りたかったのです。そして、二度と同じことが起きないようにと願っていました。
だから、私は裁判に踏み出しました。
科学の力、医学の論理、事実に基づいた証拠。それらがあれば、きっと伝わるはずだと思っていたのです。ですが現実は、そんなに甘くはありませんでした。
私は生物学を専門にしてきました。だからこそ、診療記録、ガイドライン、論文、医師の意見書、できる限りの医学的証拠を集めました。それはどれも、命の流れを理論的に追い、過失があったかどうかを明らかにするものです。
しかし、裁判所の中では、そうした科学の声がまるで風のように、素通りしていくように感じられました。
裁くのは法律のプロ?であって医療のプロではない
日本の裁判制度では、医療裁判であってもそれを裁くのは医療の専門家ではありません。
法律に詳しい裁判官が、医学や科学の複雑な資料を読み、自ら理解するように見えるかもしれませんが、心証で結論を下します。
心証とは、簡単に言えばこう感じた、こう思ったという、裁判官の主観的な判断です。
いくら理論的に因果関係を示しても、それが担当裁判官の腑に落ちないとされてしまえば、負けてしまう。
これが心証主義の恐ろしさです。
東京地裁には医療集中部があると聞きました
医療事件を専門的に扱う部があると知ったとき、少しだけ希望を抱きました。でも、ある弁護士の方からはこんな話も聞きました。
「医療集中部があるからと言って、必ずしも理解が深いとは限らない。むしろ、型通りに処理されることもある。だからあえて避ける弁護士もいるんです」と。
たとえば、人間の医療と違って、動物医療については同じ命という認識を持たれにくい現実もあります。
命の重さに違いはないはずなのに。
私たちは、診断をAIに任せる時代に生きています。病態を画像で解析し、データで管理する時代です。
なのに、裁判所では証拠よりも裁判官がどう感じたかが重要視される。科学の声がかき消されていくこの制度に、私は深い無力感を覚えました。
アラレに、私は「ママは最後まであきらめなかったよ」と言えるから。
制度は私たちが思うよりずっと古く、閉ざされ、そして変わろうとしない。
だから私は、せめて記録を残したいと思います。
同じように悲しみ、理不尽に傷ついた人のために。
そして、未来の命を救う一石になればという想いを込めて。
科学と正義が、いつか手を取り合える社会を願って。

