「一葉記念館」前にあるグッズ・ショップ「一葉堂」
【1】 一葉の両親のこと(1F)
ありがたいことに、常設展示の大部分が撮影可なので、画像中心の番外篇を組むことにしました。
名作『たけくらべ』の舞台地に立つ本館は、文字パネル中心の展示で一葉文学の本質に迫ります。「字ばっか😢」などと文句涎れる輩は、今すぐにスマホの「戻る」ボタンを押して退出してください⛔。
明治維新よりはるか前、黒船さえ未だ到来しない天明・天保の大飢饉期に、すでに徳川幕藩体制の崩壊は始まっていたのです。
江戸に近い関東諸國の農民のなかには、農村のしきたりと年貢の重圧のもとで一生を終えることを潔しとせず、さまざまな係累をたどって江戸表てへ出奔してゆく者が続出していました。甲州において、その先鞭をつけたのが真下専之丞で、その後、一葉の父則義も、専之丞を頼って村を出奔し、江戸へと向かいます。
則義が村を出たきっかけは、妻あやめ(のち、たき と改名)との結婚をあやめの親に反対されたためでした。つまり、一葉の両親は「かけおち」して江戸に赴き、懸命にカネを貯めて士族の身分を買い取り、江戸に定住する地位を得たのです。
山々で囲まれた甲州から江戸へ出るには、「大菩薩峠」「笹子峠」「御坂峠」の3つ道筋がありました。則義らがなぜ「笹子峠〔約1090m〕」越えの甲州街道を利用しなかったのか判りませんが、参勤交代の通る甲州街道は監視が厳しかったのかもしれません。たしかに、「大菩薩峠」は標高2000メートルあまりの難所ですが、「御坂峠」も標高約1520メートル、しかも、山道の勾配は「大菩薩」に決して劣りません。たきは、身重の身体でよく越えたものだと思います。
しかし、私にはむしろ、2人が「御坂峠」へ向かったのは、富士を眺めながら往きたいという物見遊山の趣向があったのではないかと思えます。じっさい、道中の先々で寺社旧跡に参詣しています。故郷ではいつも山々の後ろから頭の先だけ覗かせていた富士と正面に向き合って、2人は洋々たる将来の希望に胸を膨らませたことでしょう。江戸到着後誕生した長女には、「ふじ」という名が付けられています。
パネルの地図↑では、❼❽❾がジグザグしていますが、これは地点の位置が不正確なためで、実際には、須走→竹之下(現・足柄駅)→足柄峠→矢倉沢は一直線に並んでいます。「足柄峠」は最も低く容易な箱根越え道です。矢倉沢から先は、江戸へ急ぐなら、小田原へ寄らずに直接国府津へ出ることもできますが、則義らは、小田原で昼食をとっています。これも、物見遊山の趣向でしょう。
小田原からは東海道を往きますが、藤沢の「遊行寺」に詣でた後、江ノ島弁財天に寄り道しています。
静岡県小山町須走「紅葉台」。2021年1月撮影。
北側から見る箱根連峰。「足柄峠」は、「矢倉岳」と「金時山」のあいだ・後方。
静岡県小山町須走「あざみ平」。2021年1月撮影。
1857年〔「安政5か国条約」調印の前年〕4月江戸に到着すると、則義は、真下専之丞の下で「蕃書調所 ばんしょしらべしょ」の小使として勤務、たきは、「ふじ」出産後わずか1週間で、旗本家に住み込みの乳母として奉公し、夫婦で勤倹節約して、士族の身分を買い取る資金の貯蓄に励んだのです。
59年10月からは、則義は、勘定組頭 くみがしら 菊池大助の中小姓として抱えられます。菊池はベルギーなど諸外国との通商条約の締結に全権大使としてかかわった人でした。つまり、則義の主上は、真下,菊池ともに蘭学や外国語の素養を具えた幕臣であったようです。則義も、彼らのもとで欧化の風を浴びながら文書作成や記録伝達の仕事を覚えていったのです。
ちなみに、1858年には福沢諭吉が「蘭学塾」〔「慶応義塾大学」の前身〕を開き、62年には「生麦事件」、63年には「薩英戦争」が起きています。
大岡越前が出てくる「南町奉行所」そのまま、……というかんじですね。
【2】 兄弟と知人(2F)
一葉の次兄虎之助は、ひたすら勤倹努力の両親とは異なる奔放な性格であった(品行が悪かったとも云う)ため、1881年15歳の時に分家させられ、翌年、陶工のもとに弟子入りさせられました。しかし、虎之助は、9年間まじめに修行して薩摩焼の絵付師として免許皆伝し、「奇山」と号しています。跡取りの長男泉太郎が病没し、父則義が事業に失敗して零落した後は、母と一葉らを引き取って面倒をみたものの、士族の矜持を棄てられない母との間で諍いが絶えず、けっきょく母と一葉らは「本郷菊坂町」の侘び住まいに転居します。
一葉は、のちに虎之助に取材して書いた「世に容れられない名人気質の陶工」を主人公とする『うもれ木』〔1892年〕で、一般商業文芸誌での最初の成功をおさめます。虎之助は、一葉に、父則義のような官途奉公でも、実業商売でもない、「芸」という第3の身の処し方があることを、無言のうちに教示していたと言えるのかもしれません。
桃水は、一葉が、小説家を志して指導を乞い、たんなる師事を越える恋慕に至った人ですが、一葉が数々の名作を生み出した「丸山福山町」への転居は、桃水の住居がある西片町のすぐ崖下だったからだと、私は想像しています。
とはいえ、↑このパネルは意外でした。ネット情報でも、私の手許にある一葉関連書籍でも、半井桃水といえば、新聞で売れっ子の通俗作家だとしか書いてなくて、私もそう思いこんでいた。ところが、対馬藩お抱えの医者の子で、朝鮮王朝時代の釜山で生まれ、朝鮮古典文学をよく識り、韓日2世を主人公とする小説も書いている、という。
そういえば、桃水を訪問した 1892年「雪の日」〔次節参照〕の一葉の日記には、玄関の間で最初に目に入ったのが「朝鮮釜山よりの書状1通」だった、と記されていました。すぐ後に、一葉は桃水から『胡砂吹く風』を贈られています。
もしかすると、桃水は、一葉の社会意識にも影響を与えているかもしれません。というのは、一葉が旺盛な創作活動を開始した 1894年とは、日清戦争〔朝鮮での農民反乱鎮圧に日清両国が派兵して衝突したことから勃発〕の始まった年だからです。開戦前夜の緊張した世相が一葉の作家意識に影響を与えたことは、これまにでも指摘されていますが、朝鮮、さらに桃水がそれにどう関わるかは、盲点になっているようです。そうはいっても、桃水の小説をまったく読んだことがない現時点では、これ以上のことは何もわかりません。
【3】 『たけくらべ』の舞台(1,2F)
『たけくらべ』の舞台である竜泉寺町および「吉原遊郭」に関する展示からも、多くの新知を得ることができました。たとえば、「千束稲荷神社」は当時は、現「竜泉寺」のすぐ北隣りにあったこと↓など。「竜泉寺」は「千束稲荷神社」の別当寺なのですから、当然そうであるはずなのですが。
「筆屋」は、『たけくらべ』の舞台の一つとなっています。美登利ら「表町組」が幻燈会を催した会場で、長吉は「横町組」を率いて殴り込みを掛け、美登利に、泥のついた草履を投げつけます。
その隣りの「野沢駄菓子屋」は、一葉宅の雑貨店の5か月後に開店しており、こんな近くで同業をやられたら、一葉雑貨店が不振になるのは避けられませんでした。
「吉原」に入る角地に「大黒屋」とありますが、美登利ら一家が抱えられていた「大黒屋」のモデルなのか? そもそも実在の「大黒屋」は女郎屋だったのか、これだけではわかりません。
『仕入れ帰りの一葉』。滝沢康裕・画。
一葉の雑貨店の「仕入れ帳」↑。店に並んでいた品目が分かります。子供相手の「くわし(菓子)」「まめ」「せんべい」がやはり多いです。「しゃぼん(せっけん)」「花ふだ」「わら草履」,火打ちの「つけ木」などの一般雑貨、ろうけつ染めに使う「蝋筆」,染色の敷き紙に使う「あて紙」等の内職業務用雑貨も見えます。
なお、『たけくらべ』には、この界隈に多い内職として、「鷲神社」の「酉の市」のための「熊手↑」製作の隆盛が描かれています。正月の門松が片付くや否や、来冬の「酉の市」を期して「熊手」製作を1年かけてやっているというのです。
【4】 作品と同人誌と文学仲間(2F)
一葉の小説『雪の日』は 1893年3月に『文学界』に掲載されましたが、モチーフを得たのは 92年2月、桃水宅を訪ねた帰り道、九段下付近の内堀端でのことでした。この日、桃水から同人誌〔『武蔵野』。『文学界』は、桃水の2つめの同人誌〕発刊の計画を打ち明けられ、一葉も投稿を勧められ、こうしてようやく、処女作『闇桜』発表のチャンスが巡ってきたのです。
『昨日〔桃水が一葉に〕書状を出したる其用は今度〔…〕若人達の研究がてら、1つの雑誌を発兌せんとなり、〔…〕腕限り力かぎり仆れて止まんの決心中々にいさぎよく、原稿料はあらずともよし、期する所は一身の名誉てふ計画ありて、〔…〕君をも是非とたのみて置きぬ、15日までに短文1編草し給はずや、尤も一二回は原稿無料の御決心にてあらまほしく、〔…〕
半井うしがもとを出でしは4時頃成 なり けん。白がい\/たる雪中、りん\/たる寒気をおかして帰る。中々におもしろし。ほり端通り、九段の辺、吹かくる雪におもてもむけがたくて、頭巾の上に肩かけすっぽりとかぶりて、折ふし目斗さし出すもをかし。種々の感情むねにせまりて、雪の日といふ小説一篇あ〔編〕まばやの腹稿な〔成〕る。』
樋口一葉『につ記』明治25年2月4日:『樋口一葉 日記・書簡集』,2005,ちくま文庫,pp.30,32. .
『文学界』は、桃水主宰のもとで最も成功した同人誌であり、まもなく原稿料も出せるようになり、島崎藤村,上田敏といった現在までも知られる大家を輩出する土壌ともなったのです。
小説『闇夜』は、一葉が『文学界』に投稿した作品の一つで、『大つごもり』に先立つものですが、(10)【27】で紹介した評価は不正確だったことが判ります。
『闇夜』は、全体として非リアルでミステリアスなふんいきに特徴のある作品です。「高木」にけがを負わせた人力車の主が、「お蘭」との婚約を破棄した「波崎」であることが次第に判明してゆくプロセスは、推理小説を思わせます。「波崎」には、一葉の消えない恨みの対象である・かつての婚約者渋谷三郎が投影されています。しかしその人物像が如実に描かれることはなく、「波崎」の婚約破棄と「お蘭」の父の自刹との関係はあいまいであり、「お蘭」たちの屋敷の荒廃と、「お蘭」たち住人がどこへともなく消えてしまう謎の結末と、「波崎」が繫栄してゆくこととの対比だけが印象に残ります。
そこには、「波崎」や渋谷三郎のような・発展する日本国家を担う人々の成功に向けられた、一葉の巨大な疑問符を見ることができます。この小説のスタイル自体が、そうして落伍し廃滅してゆく〈古いもの〉を象徴していると言えるでしょう。
しかし、疑問は、いかに鋭くとも、疑問であるにとどまるほかないのです。『闇夜』は、一葉が、「お蘭」の「みやび」の世界への哀惜から離脱して、「お力」と「美登里」らの・よりいっそうの〈暗やみ〉,創造性に満ちた〈やみ〉へと飛躍するためには必要な通過点だったのではないでしょうか。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!

































