名古屋市中区にある三菱UFJ銀行の「貨幣・浮世絵ミュージアム」を訪れました。
古代の貨幣に興味があったのと、素晴らしい施設なのに無料、しかも家から近いと3拍子が揃っています。
場所は、名古屋の伏見と栄の中間辺りです。
いかにも銀行の博物館らしい外壁です。
ミュージアムの中は、写真撮影禁止、傘などの突起物も持ち込み禁止です。
保安に厳重な感じで受付のほかに警備員二人がついて回り、展示品に触れそうになるとすぐに注意されます。
カップルが注意されているのを何度か見ました。
撮影禁止なのでパンフレット等から雰囲気を掲載します。
ミュージアムの中は、外観と同じく、美しく展示されています。
お金をかけてるなという雰囲気でとても洗練されています。
特に私が注目するのは、古代の貨幣です。
『日本書紀』には次のように記されています。
天武即位12年4月15日(683年)に、天武は、今より後には銅銭を用いて銀銭の使用は止めるように指示します。
その三日後の4月18日には、ただし銀の使用は止めるべからずということで、銀銭の使用はしないが、銀を用いた取引は否定しないということのようです。「銀銭」と「銀」をしっかり区別しています。
高額の場合、銅銭では対応できず銀を使用しないと実際の取引には支障が出るからだと思われます。
ですから念のために銀は使用して良いとしたのでしょう。
もうひとつ考えられることは、銀銭は天智天皇によるものですから、天武天皇はそれを排除しようとしたとも考えられます。
記紀に記されるとおり天智と天武は兄弟なのか、それも仲の悪い兄弟なのか、それともまったくの赤の他人なのか、新たな疑問が生まれますね。
やや横道にそれました。貨幣の話を進めます。
この683年の記事と併せて。飛鳥京跡の飛鳥池工房遺跡において「富本銭」を製造していたことが判明したために、、和銅元年(708年)に発行された「和同開珎」より古くから貨幣が製造されていたことになります。
ただし、飛鳥池工房遺跡から発見された「富本銭」については、中央の鋳棹(いざお)と銭はバラバラに別々の場所から出土したものであるということで、寄せ集めで展示されているようです。鋳棹とは、貨幣などの金属を鋳造する際に用いられる棒状の部品で、プラモデルの部品を繋ぐ骨のようなものですね。
一般的には、書紀の記事とこの飛鳥の遺跡から680年辺りから銅銭が使用されていたと考えられています。
では、それまで日本では貨幣が使用されていなかったのかでしょうか。
ミュージアムには説明がなかったようですが、実は、次の書紀の記事から5世紀の終わり頃には銀銭が使われていたことが分かります。
顕宗天皇二年(486年)に「稻斛銀錢一文」(稻斛(だいこく、約180リットル)は銀銭一文)の記事があります。『日本書紀』の記事を信用すれば、486年には銀銭が使用されていたのです。
ところが、多くの歴史学者はこの記事を信用していないようです。
これまで銀銭は、7世紀後半に都が置かれた大和や近江付近を中心に17の遺跡から出土していますので、およそ7世紀後半から使用されたとみているようです。
17の遺跡のうちのひとつ、天智天皇の近江京があったとされる大津市の崇福寺から銀銭が発見されており、富本銭よりさらに9年前の(672年)に天智天皇の近江京で貨幣として使われたと見られています。このために銀銭の使用は7世紀後半とみて、先の『日本書紀』の顕宗天皇二年の記事は信用されていないようなのです。
崇福寺の舎利箱の外側からはその脚に癒着もしくは脚元に並べられて銀銭12枚(うち1枚は逸失)が出土しており、径3cm重さ8~10gです。
ところで、この銀銭は、「無文銀銭」と呼ばれていますが、これを見れば分かるように丸い文様があります。また2枚には「田」字状の刻印があります。
ですから、「無文銀銭」という名称は、誤った呼び名ですね。丸い文様や文字状のものがありますから、私なら「無文銀銭」とは名付けません。なお、三角状の物は重さを調整するために貼り付けられたと思われます。
崇福寺の銀銭は、およそ天智天皇の7世紀の時代のものです。
それでは、顕宗天皇二年(486年)の記事にある銀銭は、いったい、どこで誰が製造していたのでしょうか。
ますます興味が湧きますね。
しかし、これ以上は5世紀の古い銀銭が発見されていないのでわかりません。
ただ、私としては、書紀に意味も無く「稻斛銀錢一文」と記述することはないので、5世紀に倭(日本〕では銀貨が使用されていたと思っています。
そうすると、5世紀にしろ7世紀にしろ、中国大陸でも朝鮮半島でも銅貨のみの使用で、銀貨は使用されていないので、銀銭は倭(日本〕の独自文化ということになりますね。
さて、ミュージアムの中でさらに扉で区切られたところに浮世絵の展示室があります。
こちらは写真のみで失礼します。








