孫崎享『日米開戦へのスパイ』冤罪ゾルゲ事件は戦争キャンペーンに使われた | ☆Dancing the Dream ☆

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今世紀最大のスパイと言われるゾルゲ。
しかし、ゾルゲ事件は冤罪だった。
対米戦争の回避を模索していた近衛内閣を崩壊させ、
東條内閣誕生のために米国の工作によって、
ゾルゲ事件はでっち上げられた。
ソ連のスパイ・ゾルゲに協力していた共産党員の尾崎秀実が
近衛文麿政権のブレーンであったことを理由に、
近衛内閣は潰され、東条内閣が発足した。

ゾルゲはドイツ人で新聞記者であったが、
ナチスを裏切りコミンテルンと結んでソ連のスパイになった。
ソ連は東部戦線において日本軍が不可侵条約を破って攻撃してくる可能性と、
逼迫するソ連首都モスクワのある西部戦線で対独戦とのどちらに軍を増強するか?
という課題において、
ゾルゲからの情報で、日本の北進がないことを知って
それは対独戦に集中して勝利することができたと言われているが、
事実は、ゾルゲ情報に先んじてソ連は西部 対独戦への増兵を決断しており、
ソ連の対独戦勝利の主要な理由は、
アメリカ(ホプソン特使)による軍事物資補給があったからに他ならない。
アメリカは第二次世界大戦に参戦する以前から、
ソ連に対して大量な武器供与を行なっていたのである。
ドイツはソ連にアメリカからの物資援助があったことを
知らなかったことが、冬将軍の問題以前に、敗戦の原因でもあった。

ゾルゲは、連合国軍益をもたらした
有能なスパイであったというわけではなかったのである。

1941年7月2日、重要な御前会議があった。
重要なふたつの議題は、
・南方に進出する。
・北方は進出はどうするか?時期を見て準備をしておく。
 50万人増兵。十分な物資補給で北方で軍事演習を行った。(7月-8月25日)
よって、この時点ではゾルゲらは
関東軍がソ連に侵攻するかもしれないと思っていたはずであり、
ゾルゲが関東軍北方侵攻はないと報告できたのは、
1941年9月6日以降、9月中旬であった。
その時はすでに、西方ではレニングラードはドイツ軍に包囲され、
いつ首都のモスクワが脅かされるかもしれない状況であったので、
ソ連では8月10日頃には、兵力は西部に集中すべきであるという
ジューコフ元帥の判断がスターリンに受け入れられていた。
よって、ゾルゲ情報とは、まったく関係なく、
ソ連は極東軍を西に移動させることを決断していたのである。
*(ジューコフの回顧録に明記されている)

日本軍は満州事変、満州占領、
日華事変、対中戦争 15年戦争を行い、
北支、中支、そして、南下して侵略を続けていくが、
アメリカは、参戦前から、
国民党、そればかりではなく、毛沢東の中国共産党軍の八路軍にも
支援を行なっていた。
アメリカは1941年の段階で、ドイツ 日本 イタリアと戦う国に対して
徹底的に軍事物資を供給して戦争に加担したのである。

日本は、アメリカの中国への物資支援のビルマルートを破壊するために
インドシナ に入っていった。
日本は、ドイツがアメリカのソ連援助を見誤ったのと同じく、
すでにアメリカがビルマルートを強固にする段階で
実質的に戦争に入っているという変化を計算できなかった。

アメリカのソ連 スターリンへの軍事物資支援を仲介した
重要人物・ホプキンスは、無用な人間として戦後に消される。

1946年6月 ポツダムでチャーチルとスターリンが反発し合い、
冷戦は始まった。
しかし、日本はマッカーサーのコントロール下で民主化路線に入り、
それに逆行する軍事化路線、共産党弾圧に入るのに使われたのが、
ゾルゲ事件キャンペーンなのである。

◇    ◇


冤罪だったゾルゲ事件は、戦中、戦後、二度にわたって利用された。

ゾルゲ事件は、1941年10月に起こる。
戦中はゾルゲの具体的なオペレーションは分かっていなかった。
1949年1月にアメリカの陸軍が、
日本のゾルゲ事件というのはソ連の大スパイ団だったと発表し、
「赤狩り」を誘発させ利用した。
一方、日本は、進駐軍によって戦争をできない国にし民主化を行なった。
しかし、冷戦の中で反共の砦として利用する必要が生じたのである。
その際に、A旧戦犯の死刑囚・岸信介を巣鴨から釈放し(1948年12月24日)
日本の軍国化に利用するエージェントとして利用することにした。
日本は民主化から逆行する軍国化を進め、
再度、ソ連を警戒の対象とし、日本の共産党を潰すために、
駐日大使グルーなどがゾルゲ事件を再利用しキャンペーンを張った。


ゾルゲ事件を担当し、
重大な冤罪を犯した検察官は、
戦後、検察のトップになった。

井本台吉、布施健は、戦後 検事総長になる。
ゾルゲ事件では主任検事の吉河光貞は「思想の吉河」の名をたかめ、
戦後,法務庁特別審査局長,公安調査庁長官をへて
広島高検検事長になった。

井本と吉河は、
砂川事件の担当検事だった。

布施健は、
下山事件(国鉄総裁轢死事件)の主任検事でもあった。
また田中角栄が逮捕されたロッキード事件の時は検事総長であった。

東京地検特捜部の前身は、
1947年の〈隠退蔵物資事件〉を契機に検察庁内にできた
隠匿退蔵物資事件捜査部である。
隠匿退蔵物資事件捜査部は、
戦後隠された旧日本軍の軍需物資を
GHQが収奪するために作られた組織である。

*隠退蔵物資事件とは、
旧日本軍が戦時中に民間から接収した
ダイヤモンドなどの貴金属類や軍需物資について、
GHQ占領前に処分通達を出し、大半が行方知れずとなった事件。
日銀本店地下金庫に保管されていた貴金属の多くが、
GHQ経済科学局の管理下にあった。
GHQのマーカット少将指揮の部隊が調査・押収に訪れた際に、
彼らによる隠匿があったとされた事件などが発生した。
GHQ同局において、日銀金庫管理担当官だった
エドワード・マレー(Edward J.Murray)が帰国後、
約500個のダイヤを不正に持ち出した容疑で米国当局に逮捕され、
禁固10年の実刑判決を受けた。
また、初代局長レイモンド・C・クレーマーをはじめ、
初期の同局将校ら十数人が後に米国で汚職や横領などの罪で検挙・更迭された。
GHQの管理下に置かれた押収資産は、
戦後復興・賠償にほぼ費やされた(日本鉱業振興会など設立)とされるが、
資金の流れには不透明な部分があり、これが“M資金”と呼ばれる。

東京地検特捜部の犯罪↓
http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/hanzai/index1.html


 孫崎享:
『戦後史の正体』では岸元首相について、相当書き込んでいます、
岸首相が米国で如何に歓迎されたか、
そしてそれは米国のエージェントに演出されたことを書きました。

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戦後、岸信介の周辺には、米国の影の部分が徘徊しています。

岸自身、『岸信介証言録』などで
「コンプトン・パケナム、ニューズウィーク東京支局長が、
岸の幹事長時代、英語を教えるということで、
週一回岸の家を訪れていた」
ことをのべています。

米国は岸に首相になる前から注目していたのです。
岸は戦前にジョーゼフ・グルー駐日大使(一九三二年から四二年)とも
交友関係をもっていました。グルーのゴルフ仲間です。

なによりも冷戦が始まるなかで、
米国が日本を「共産主義に対する防波堤」とする
決意をかためたとき、
岸信介など、第二次大戦に関与した勢力の利用が考えられました。