ちょっと長い記事を書きます。
きっと、
近いうちに出会う・・
そう思ってきた
琉球の魂が宿る美しい金細工を生み出す
美しい人の美しい手。
梅雨明けの沖縄・首里、
銀を打つ槌の音が響く、
「金細工またよし」を訪ねることができました。
沖縄のうちなーぐちでは、
「金細工」を「くがにぜーく」
もしくは、「かんぜーく」と言います。
首里石嶺町、小高い住宅街の工房にお邪魔し、
優しい白金のオーラに包まれたオジイ、
又吉健次郎さんにお話を伺いました。
お話の導入部だけちょこっと~^^
この又吉さんの槌の音は、なんと、ご自身も「くがねぜーく」を身につけている
歌手のcoccoさんのCDの中に入っているのだそうですよ。
coccoさんとの交流、彼女の人柄についても色々と素敵なお話をして下さいました。
「coccoさんは、どこかシャーマンのよう、ユタさんのようですね」と言うと、
「本人も口にするつもりはないけど、そんなことを感じると言っていたよ」と言われました。
歌を作るときは、一度に何もかもが降りてくるのだとか。w川・o・川w
「代々続く金細工師のおうちなんですか?」という問いに
「ううん」と答えられていますが・・
これはつまり、
健次郎さんは、
琉球王朝時代から続く
沖縄の伝統工芸
「金細工師」の家系の七代目であることには違いないのですが、
それを代々継続して生業にできたかというと、
琉球、そして、沖縄が、外圧を被ってきた歴史の中で、
そうはできなかったということなのでしょう。
健次郎さんの先祖一族は、昔から装飾品を作る金細工を生業とし、
王府のお抱え職人として仕えました。
18世紀半ばに初代又吉は、琉球王朝の命により
唐(現在の中国)に技術習得のために
官費留学をし、主に純銀を素材とする飾り職人としての技を極めました。
時代の流れとともに、金細工師を取り巻く環境も変わっていきました。
廃藩置県があり、第二次世界大戦、アメリカ世からヤマト世へ。
戦争で銀は政府に召し上げられ、戦火で多くの書類や道具が消失しました。
銀細工の技は途絶えかけ、
戦後は、銀の指輪に歯ブラシの柄を溶かし
ダイヤモンドカットして埋め込んだものを
米兵に売ったりもしていたといいます。
しかし、1960年代、金細工の歴史を復活させたのが、
健次郎さんの父・六代目の又吉誠睦(せいぼく)さんでした。
民芸運動の浜田庄司、染色家の芹沢けい介、
版画家の棟方志功らと出会い
彼らに啓発されて、ジャーファー・房指輪・結び指輪の復元に成功します。
工房には、棟方の直筆の絵や、版画が、
沢山飾られていました。
又吉誠睦さんは、戦前・大正8年(誠睦氏19歳)頃から、
昭和19年に那覇の街を焼き尽くした“十・十空襲”まで、
工房を那覇の現在の泉崎に構えておられました。
槌の響きを聞いて育った健次郎さんは、
沖縄のラジオ局のディレクターをしていましたが、
何も形として残らないそんな仕事に虚しさと疑問を感じるようになり、
40歳から、金細工師の道に入りました。
金細工は、500年経っても変わらず永久に遺る職人冥利につきる品物です。
健次郎さんは、自らを絶滅危惧種「ヤンバルクイナ」に例え、
琉球の金細工の伝統の灯火を守り
誠睦さんの仕事を正確に受け継いでいます。
しかし、その技術を継承する次代の職人は、
片手に収まるほどしかいないと言います。

房指輪 魚:食べ物に恵まれる ざくろ:子孫繁栄 桃:不老長寿
扇:末広がりの福 花:彩りある生活 蝶:天国の使者 葉:衣装に恵まれる

七房の飾りが付いた房指輪は、
沖縄の娘が結婚するとき、親が娘の一生、そして来世までも守られ、
幸せでありますようにとの強い思いをこめて贈ってきたものです。
花嫁さんや、琉球舞踏の踊り手が身につけます。
ジーファー
ジーファー(かんざし) 女性の姿を模しています。
長い髪をカンプーと言われる髷を結う琉球の女性は、
一本のジーファーを一生使い続け、
ジーファーは「女の分身」と言われました。
琉球王朝のジーファ-:
素材によって身分・階層が一目でわかるように定められた制度があった。
男の本簪は、六角形の竿の頭部に花型がついていて、全長約10センチ。国王のは金製で花の部分が龍の模様。王子、按司、三司官は金、親方は花が金で茎が銀、一般士族は銀、平民は真鍮。貧しい農民は木製の簪を使っていた。
男は欹髻(かたかしら)という髪の結い方をし、髪差と押差で髪をとめた。
この簪の制ができたのは、1509年、尚真王33年、尚王朝が支配体制を整えようとした時代である。だから、男が本簪と押差、女が本簪とそばさしを使うという風習は、それ以前からあったといわれている。女の本簪は漢字で起花と書く。ジーファーも身分によって使用できる素材が定められていた。型は男と同じく六角形だが、長さは約一七センチと男のものより長い。
簪の制度は衣服とともに身分を一目でわからせるものだったが、時代の変化とともに乱れが生じ、尚王朝の解体後、男は簪を使わなくなり、女のだけが残った。
結び指輪辻の遊女が「愛しい人と結ばれる」という
儚い願いを託して身につけていたと言われます。
結び指輪の復元:
健次郎さんは、「先代は棟方志功が結び指輪のスケッチ画を持っていたので、それを元に復元することが出来た。結び指輪を知っている人は少なく、元ジュリ(遊女)だった方々から聞き取り調査をしたりした。昔は金で作られていたケースが多かったみたい。金だと質入することも出来るので、それで金で作るほうが人気があったのだろう」と話してくれました。
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さて、旅では、
我ながら、一体全体、何故?と思うようなことに出会います。
崖崩れ(イタリア)、雹が降る(チェコ)、大洪水(スリランカ)などなど、
天災に合う天才ではないかと。
けれども、天恵にも会うのです。
今回も、海人がそこにはいないと言った海で、
ウミガメに会いましたしね。
また、遺跡のような場所や、拝所のようなところで
急に嘔吐をもよおして、同行者をギョッとさせたりもします。
何かとヘンテコな体験をし、
最終的に不思議な良き出会いに恵まれる私ですが、
今回、沖縄初日、
ガンガラーの谷に行き、
その後、綺麗な夕日でも見ようと寄った海岸のそばで、
ご飯を食べました。
なんと、その店主は、
沖縄に移住した知人でした。
ネパール人のご主人とネパールカリーを名物とする
人気店を営んでいたのでした。
確か、北部でオレンジ農家をすると言っていたはずなのに! 驚!
さて、沖縄本島での一泊目は、
次の日に泊港から、
慶良間諸島の座間味に渡る予定だったので、
泊港に近く、大きな浴場があるというのがポイントで
その宿を取りました。
初めて泊まる宿でした。
私は、この宿で、
今まで経験したこともないような
寝苦しい、悶絶の一夜を過ごすことになります。
ナビを使って車で到着した宿は、
やや寂れた通りに建ち、
なんとも不思議な雰囲気を醸していました。
横に長~い長~い2階建ての少々古びた、
けれどもこざっぱりとした建物で、
入口の両脇には、
かりゆしウェアを着た大きなシーサーが迎えてくれます。
そして、なんと、1階には、大浴場があります。
こんなヘンテコな作りの宿は、全く初めてです。
フロントのおばさんは、
沖縄人らしくとても親切に優しく迎えてくださり、
色々なアメニティを手渡してくれ、
「夕食を外で食べたいのですが」と質問すると、
地図を持ち出して・・
「この宿の東側には行かないでください。
こっちは、いわゆる歓楽街ですから、
出歩く場合は西側に行ってください。」と言うのです。
なるほど、この向こうには、
男たちが遊ぶ歌舞伎町的なところがあるのだろう。
くらいに思っておりました。
この晩、私は、
部屋中に恐ろしいほどの「湿気」を感じ、
除湿しても除湿しても追いつかない湿気と
暑いのに凍るような寒気を感じ、
一睡もできませんでした。
もしかして、風邪をひきかけているのか?
大浴場の真上にある部屋のせいなのか?
そう思っていました。
こここそが、「辻(ちーぢ)」と呼ばれる
琉球王国・ 尚貞王の時代から遊郭となった所だとも知らずに・・
まさに、今回の旅で、
金細工の又吉さんに会い、"結び指輪"を求めたいと願っていた
その指輪を身につけていたジュリ(尾類)と呼ばれる遊女が暮らした
ちょうどその一角であったことも知らずに・・
そして、こここそが、
干拓される前、海が分かつ向こうに浮かぶ小島、
浮島の端、海岸線で、
明治期の地図には「湯屋の前」と呼ばれる森が海岸沿いにある。
おそらくは、そこはここ、とも知らずに・・
まるで、湯婆婆の「油屋」に迷い込んだ
千と千尋になったかのようでした。
いえ、ここは、
まさに 宮崎駿の『千と千尋の神隠し』の
舞台となった場所なのだと直感しています。
そのお話はまた、この次に…
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「辻(ちーぢ)」とは、
1526年尚真王時代に始まった遊郭。
約300軒近くある妓楼には、
男性の支配者は存在ぜず、
女性だけが権限をもつ自治行政が敷かれていました。
琉球王府を支え続けた辻遊郭は、
1879年の琉球王国滅亡(廃藩置県)以降も存続し、
1944年のアメリカ軍による10.10空襲で
那覇が焼けつくされるまで、約400年間、存続しました。
各楼は、2~3人の芸妓を抱えた営業主の抱親(アンマー)により営まれ、
抱親は「詰尾類(チミジュリ)」と呼ばれ、一人の旦那を守る女性でした。
遊郭で生まれた子供は、辻の女たち皆で助け合って育てられました。
尾類になる際は、大方家庭の困窮で売買されてきた例が多く、
女は辻の尾類(ジュリ)、
男は糸満のウミンチュ(漁師)となっていたのです。
生活苦から働く場所ではあっても、
周囲から差別の目を向けられるようになったのは、
明治以降ヤマトから家父長制と
それに伴う男性中心の「道徳」観念が入ってきてからだそうです。
これは、元祖ヘイトスピーカーと言われる、福澤諭吉の思想の
影響でしょうかね。
辻に生きた大勢のジュリたちは、
いわゆる娼妓・芸妓であり、琉歌、三味線、琉球舞踊を習得し、
着物の裁ち方縫い方、料理などを学び、代々受け継ぎ、
明治以降も沖縄芸能の重要な担い手であり継承者でした。
辻遊郭は、本土人・中国人・首里那覇の上流人を相手とした
高級な遊郭で、ジュリたちは、客を選ぶこともできました。
沖縄三大祭りのひとつ「尾類馬行列」は、
辻の遊女たちが着飾って町を練り歩いた都市祝祭でした。
戦後の娼婦廃止の米軍布令や婦人団体の批判などにより、
たびたび中止に追い込まれました。
遊郭崩壊後の沖縄の芸能史において、
元ジュリの女性たちが継承してきた芸能は、
戦後から現在に至るまで、沖縄の土壌に根を張り、
新しい創作を生み出しています。
補足ですが、
元ジュリの上原 栄子さんが著した
『辻の華』という本の中に、
十・十空襲(沖縄大空襲)で辻を焼け出されたあと、
日本軍によって、従軍看護婦として給水部隊に配属されたはずなのに、
その舎には、「慰安所」という看板が掛かっていた。――
というような一節があったことからも、
安倍首相の「従軍慰安婦は作られた話」などというのは、
全くの妄言であることは明らかです。
もう一つ、
この辻からほど近い、「なんみんさん」として親しまれる
琉球の聖地、波上宮にほど近い、旭ヶ丘には、
沖縄戦のなか、ギリギリまで新聞を発行し続けた記者達の記念碑があります。
彼らは、その記者魂から、「紙ハブ」と呼ばれた男達です。
沖縄新報という戦前の新聞の記者達は、
南部で沖縄戦の全てを経験したということです。
そして、戦後、彼らは「沖縄タイムス」を立ち上げることとなります。
百田尚樹が、
「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない」
「その時は冗談口調だったが、今はもう本気でつぶれたらいいと思う」と言った
その2紙とは、「琉球新報」と「沖縄タイムス」ですが、
百田のようなヘナチョコに、「紙ハブ」の豪傑たちが、
つぶされる訳がないでしょう。
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ところで、
沖縄・那覇の地形は、
いったいどれほど変わったのでしょう?

覇読史地図を作製された嘉手納宗徳氏の以下の言葉
「那覇ほど地貌が変わったのはない。
大げさに言えば世界に類のない変わり様である。
区画整理の美名のもとに土地は一様に削られ、掘られ、均されて、
交通その他、現代社会には至極便利になったかも知れないが、
嘗ての史跡、名勝の大部分が破壊され、
昔のよすがとなるものを留めない変わり様である。
親見世(琉球王国の貿易官庁)は、
天使館(中国皇帝が派遣した冊封使の滞在していた場所。
中国人街の久米村にあった)は在番奉行所はと問われても、
その跡は全くわからない。
西の海も完全になくなり、漫湖の名も地図上から消えつつある」
ここで1945~46年当時の那覇市の状況を見てみよう。
1945年(昭和20年)10月、住民は各収容所からそれぞれの故郷へ帰還することが許可されたが、旧那覇市の市街地は米軍によって全面的に接収され、駐屯地、物資集積地として立ち入り禁止区域となっていた。
「那覇には永久に帰れない」と当時の軍政府政治部長が発言するほどであった。
そこで戦後沖縄最初の中央政治機関である沖縄諮詢会は陶器や瓦を製造する人々の壷屋への移住を米軍に訴え1945年11月に特例として、食器生産のための陶工103名、続いて瓦職人136名の壷屋への帰還が許可されたのである。当時は行政区としての那覇市は存在せず、暫定措置として1946年1月、壷屋は「糸満地区管内壷屋区」となった。
旧那覇市街の殆ど全域が立ち入り禁止区域になっていて、多くの米軍施設があった。また、軍施設から1マイル(1,6km)以内には住宅はもちろん「いかなる建造物」も建てることが禁止されていた事もあって、住民が入域できる区域といえば壷屋一帯を中心に、戦前は農耕や牧畜に使用されていたようなところか、或いは墓地に隣接したところであった。
このように壷屋以外は立ち入り禁止であったにもかかわらず、人口が急増するにつれて牧志地域をはじめとして神里原、開南など開放地区がなし崩し的に広がっていった。
牧志には“闇市”が立ち、戦後の那覇市は無秩序ながら復興の兆しを見せ始めていったのである。その間軍政府は無許可建築の撤去を何度も警告している。
旧那覇市の市街地が漸次正式に開放されるようになるのは1949年(昭和24年)12月米軍政長官シーツ少将が“那覇を沖縄の首都とする”と発表して以降のことである。1950年(昭和25年)10月、東町一帯に建築許可。1951年(昭和26年)3月若狭町1丁目の一部と辻町1,2,3丁目が開放されたのである。(那覇市史、1987年3月発行)