瀬戸内島めぐり④~...海の向こうに捨てられたもの | ☆Dancing the Dream ☆

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かもめ 瀬戸内島めぐり かもめ

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潮風をあびてチャリで滑走~~かもめ

アートをめぐり、真夏の海と空の青のように心も晴々~~かもめ

…のはずだったのですが…汗

穏やかにさざめく波の数だけ、この島々は複雑な物語を抱いていました汗



アートサイトの島の向こう側のお話のつづきです。

どうも…島の裏面の事を調べ、考えているとき…

マイケルのBehind The Maskと一緒に思い浮かんでしまったのが

「もののけ姫」
の 「タタラ場」「病者」(白癩の者)の場面なの。。汗

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タタラ場…金属精錬所
エボシ御前は、海外に売られ、倭寇の頭目の妻となって、ついに頭目を殺し、
明から最新式の武器「石火矢」をもって逃亡。
故郷、日本で、侍の支配からのがれ、世俗とは「無縁」の自由な場所を築こうとする革命家のエボシ御前は、病者を看病し、売られた女を引取り働く場を与えた。
自力で生き抜こうとし、救済を求めない近代人として自然界と敵対する。
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病者・びゃくらい【白癩】
ハンセン病の一型の古称。身体の一部または数か所の皮膚が斑紋状に白くなるものをさす。しらはだ。

 奈良時代には既に文献の中に登場していた。8世紀に完成した「日本書紀」によれば、、「百済からやってきた顔や体が斑白で、『白癩』の者」があり、人々が彼を嫌い海中の島に捨てようとした。白癩の者は芝蓍麻呂と言い、彼が「私にはいささかの才があり、巧みに山岳の形を築くことができます」と言ったので、彼に須弥山(仏教の宇宙説にある想像上の霊山)と呉橋(アーチ式の石橋)を宮殿の南庭に造らせたとある。日本での本格的な橋梁作りのはじめである。
 12世紀の「今昔物語集」には、「比叡山の僧侶が法会(ほうえ)を妨げ、尊い僧にたいして嫉妬した報いとして『白癩』となり、周囲から穢れた者として排斥され、京都の清水坂の庵に入って間もなく死んだ」という話が記載されている。このことから、癩(らい)病を患う者は差別の対象とされて忌み嫌われていたことがうかがわれる。癩(らい)とは、「乞食」という意味を持つ。

けれども、ここでいう「白癩」には、いわゆる癩(らい)病=ハンセン病だけではなく、白斑症、その他、皮膚病一般の病気も含まれていたとされている。

そっか…汗 マイケルが20代になったころから罹っていた「白斑症」は、
ハンセン病を含む「白癩」という病名で呼ばれて、
日本でも昔から、阻害され差別の対象になっていたんですね…汗

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 大島  
『国立療養所大島青松園』の施設のみがある。1909年に 開所された大島青松園はハンセン氏病の療養施設で、かつて不治の病とされ、らい病と呼ばれたハンセン氏病の罹患者を隔離する施設だった。戦後に有効な治療法が確立され、伝染力もほとんどないハンセン氏病は今では根絶されたが、まだらい病と呼ばれた頃に、ここに入所した人たちが、150名あまり生活している。

「官用船」、その船は、高松港から日に4便、8km先に浮かぶ大島まで往復する。
この島に渡る船が「官用船」なのは、ここが厚労省管轄の施設のみがある島だからだ。
かつて、らい病と知れるとそれだけで差別を受けたので、患者は亡くなったこととされ、偽名を使って、官用船に乗り込んでこの島に降り立ったといわれる。

今では、入所者は独身寮や夫婦寮に暮らし、必要な治療や介護を受けている。かつては、大部屋に入れられ、入所者間で子どもができると強制的に堕胎させられるなど、酷い扱いを受けたという。

注)官用船…2010/09厚生労働省は、国立ハンセン病療養所「大島青松園」の
 ある大島と高松、庵治港を結ぶ官用船1隻を来年度から
 民間委託する方針を決めた。
 青松園の入所者自治会(山本隆久会長)は「不便な離島に施設を作った国が、
 最後まで責任を持って運航を続けるべきだ」と民間委託に反対。
 同省によると、現在は国家公務員の船員6人態勢で運航しているが、
 来年3月末で2人が定年退職する。
 同省では、「4人で勤務を回すのは難しい。技能労務職員の採用抑制方針も
 あって新規採用は厳しい」―などの情勢を踏まえ、うち1隻の運航を民間に
 委託する方針を決めたという。
 

豊島
瀬戸内海に浮かぶ美しい島に公害問題が持ち上がったのは、1975年、豊島総合観光開発㈱が香川県土庄町豊島での産廃処理業について県に許可を申し出たことに端を発する。8割の住民が三菱マテリアルの工場に関系している直島町は潤沢な財政ゆえに、他の市町村との合併とは無縁でこられたが、逆に自治の精神に満ちた豊島は、皮肉にも小豆島が主島の土庄町へ昭和30年に吸収合併されている。豊島総合観光開発㈱は、元々は天理教の布教で移住したとされる人物によってできたとされる。
そして、1975年から16年間、シュレッダーダストなどの産業廃棄物を違法・大量に投棄・野焼きし、史上最悪とも言える約50万トンに及ぶ産業廃棄物の大量投棄が行われた。
この異常な事態は、地元住民の反対運動を無視した、香川県側の誤った行政によってもたらされた人災であった。
土壌は重金属にまみれ、海は汚染され、島の子供は野焼きの黒煙で喘息になり、住民の県庁への不信感は拭いがたいものとなった。

島民たちは世帯主の全員近い583人が原告となって事業者を相手取り、処分場の建設差止請求訴訟を高松地方裁判所に起こした。すると事業者側は、許可申請の内容を「有害産業廃棄物の運搬・処理」から、なんと「ミミズによる土壌改良剤化処分業」に変更してしまう。
島民の反対にもかかわらず、県は78年に、汚泥などをミミズでリサイクルし土壌改良剤を作る事業を許可。前川忠夫・香川県知事が「ミミズ養殖」として許可を与え、公安委員会も「古物商」として許可してしまった。これは産廃ではないというのが県の判断だったという。
漁業や魚の養殖などで生活していた地元の住民の生活も壊滅的な打撃を受けていった。その間、県側は、住民運動を牽制するように「賠償金を欲しがっている一部の人間が騒いでいる」などと失言を繰り返しては、住民感情を逆撫でした。不法投棄は、その間も続けられ、90年に入り、他県である兵庫県警が廃棄物業者を廃棄物処理法違反で摘発して、始めて、この豊島問題の深刻さが、全国に知られるようになった。
1990年に兵庫県警が強制捜査、県は許可を取り消し、撤去命令を出した。
93年、豊島住民は、中坊公平弁護士ら5名の弁護士が無報酬で結成した弁護団を迎え、中坊氏の「どこまでみなさん本気なのですか。本気でかからなければ手遅れです。大丈夫ですか。」という涙ながらに訴えに、何とか香川県に県としての非を認めさせ、豊島を以前のような平和で美しい島に戻すような運動としていくことを住民で決意した。
住民は地元から、県会議員を排出する運動を展開し、見事に地元の代表を県議会に送り出すことに成功した。その間、知事も代わった。頑なに頭を下げることを拒んでいた県側も、ことの成り行きが、明らかに自分に不利であることを悟った。かつての日本には、「公」というものは間違いを犯さないもので、無知な「私」を導くもの、という一種の「公神話」がある。この考えは、現在の民主主義とは、まったく相容れない概念にも関わらず、以前として根強いお上優先の思考である。そもそも県知事というものは、いまでも中央官庁、特に自治省上がりの知事が多い。それは公である官僚上がりの知事の方が、中央政府に対して、話が通りやすいという、公優先の考え方が、依然として残っていることを意味するものである。
県側が、70年代後半に自らの政治的判断の誤りを認めて、素早い解決の方向を模索していたら、このような深刻な事態は招かずに済んだはずだ。
豊島住民は公害調停を申請、7年後に調停が成立、2000年6月、知事は廃棄物の認定を誤り適切な指導を怠ったことを住民に謝罪、撤去した。
いよいよ実際に産廃を処理することになり、、当初、県は廃棄物の中間処理施設を豊島内に建設しようと考えてた。豊島の産廃処理が終わったあとも施設を有効利用したい、と。ところが住民側は、他地域からの産廃の持ち込みは拒否の姿勢だった。そこで直島に中間処理施設をつくることになったのだ。

注)中坊公平…森永ヒ素ミルク中毒事件、弁護団長。
  破産した豊田商事の管財人に就任し、被害総額の一割を回収、
  被害者へ還付。
  豊島産業廃棄物問題、地元住民と共に解決への活動。
  住宅金融債権管理機構の社長、整理回収機構の社長に就任し、
  債権回収の処理にあたる。
  小渕内閣特別顧問。
  「平成の鬼平」と呼ばれたが、住宅金融債権管理機構の債権回収で
  不適切な回収が行われたことが公になり、責任をとる形で弁護士を廃業。


直島
1916年、農漁業の不振で財政難にあった直嶋村は、政治や官僚との癒着により躍進を遂げた政商、三菱合資会社が打診した銅製錬所を受け入れる決断を行う。銅の製錬の際に出る亜硫酸ガスは、足尾銅山や別子銅山など各地で山の木々をすべて枯らすなど煙害を起こしており、三菱は、心配の少ない離島を探した末に直島へ打診を行ったのだった。1917年、島の北端で三菱合資会社の中央製錬所が操業開始されると、島の北半分および周囲の島々の木々は煙害でほとんど枯れて禿山となってしまった。しかし直島は三菱金属鉱業の企業城下町として一気に発展し、人口増加と豊かな税源、総合病院や映画・芝居等の娯楽など、瀬戸内の離島はおろか香川県内でも有数の豊かな生活を手に入れた。
しかし、事業の高度化と平行して合理化が進み、以来従業員数や島の人口は減少し続けている。また銅の国際価格の低迷から製錬事業そのものが低迷した。

1990年代に隣の豊島にて発生した産業廃棄物の不法投棄が問題となり、1998年から三菱マテリアル直島製錬所敷地内に、豊島廃棄物中間処理施設から産出される飛灰を処理し金属などの資源として再生する産廃処理施設を総合的に整備する「直島エコタウン事業」構想(エコアイランドなおしまプラン)が始まった。三菱マテリアルの規模縮小の影響を少しでも食い止めたいとの直島町当局の目算があったのだ。
中間廃棄物処理場の受け入れのために、反対派だった元讀賣新聞社員の町長を、三菱マテリアル寄りの町長とすげかえたという経緯もある。

2003年香川県直島環境センター(豊島産業廃棄物等中間処理施設)、2004年有価金属リサイクル施設/溶融飛灰再資源化施設が相次いで稼動。
豊島の廃棄物と汚染された土壌を、直島に新設した中間処理施設に、無名に近いデザイナーに1000万円を随意契約で支払って作成したミツバチの絵が描いてあるカラフルな専用船で運んで、高温で溶融処理する。
ダイオキシンの発生を防ぐためには、こうした高温焼却炉が必要だということらしい。しかし、事実は、ダイオキシンを抑制しているのはフィルターなのだから、高温焼却炉は、無用であるという説がある。
つまり、環境がらみのこういう巨大事業が、新たな公共事業になっているということだ。
――巨大な焼却炉をつくったから、ミツバチの描いてある船で、豊島からでもどこからでも、蜜のように甘いゴミをどんどんもってくれば良い。むしろ燃やすごみが足りない。豊島の住民が懸念してたように、最後には県外からわざわざもってくるしかない。――大規模な産業化を進めて、つくった施設を維持するために、このような事態に陥っているのだ。

環境センターでは豊島から海上輸送された産業廃棄物と直島町内から出る生活ゴミを溶融炉で溶融し、コンクリートの骨材などに使用されるスラグと溶融飛灰を生成。溶融飛灰は近接する有価金属リサイクル施設/溶融飛灰再資源化施設に搬入され、自動車やパソコンのシュレッダーダスト等と共に金、銀などの重金属を抽出して再資源化に供する。
ごみの錬金術か。。?!直島町観光協会は、スラグ陶芸体験教室 などを催し、
ささやかにゴミ再生アピールしているのも涙ぐましい。
しかし、豊島のゴミを高温で焼却処理するだけで、香川県の森林が年間に吸収できる二酸化炭素をほぼ使い切るくらいだという。

お受験産業のベネッセの「ドリル学習の勝者」のお偉方が、
日本を滅ぼす様の縮図だ。。。?!

豊島産廃を受け入れるに当たり、直島も汚染されるというような風評が広がる中、香川県は漁業や観光への風評被害の対策を行った。
そして、ベネッセの「リゾートとアート」事業の出番となる。


アートの島々への変貌

その対策とは、リゾート開発である。鴻池財閥系、旧三和銀行(現・三菱東京UFJ銀行)の取引先企業によって構成された企業グループ、「みどり会」の会員企業、藤田財閥の「藤田観光」が、直島の南端の風光明媚な地区を秩序だった観光リゾート地にしようと、土地を一括購入、キャンプ場が1960年代後半の観光ブームの時期にオープンしたが、国立公園内という制約もあり大規模な開発はできず、石油ショック後は業績が低迷し撤退した。

その後に島を文化的な場所にしたいという意向で町長・三宅親連と福武書店の創業者・福武哲彦との間で意見が一致し、その後、急逝した福武哲彦の跡を継いだ福武總一郎が1987年に島南部一帯の土地を購入し、1989年に研修所・キャンプ場を安藤忠雄のマスタープランでオープン。福武總一郎は「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための「直島文化村構想」を発表し、1992年にホテル・美術館の「ベネッセハウス」建設などへと拡大する。
「家プロジェクト」と命名された古民家を買い上げて保存・再生し現代美術の展示場とする活動など、現代アートという異質なものが保守的な土地に入って来ることに対する町民の反感を地域住民参加という手法を取ることで、回避する方策をとった。
2005年には地中美術館、2010年には李禹煥美術館が開館し、本村の中もカフェや民宿等ができるなど徐々に変化しつつある。

福武總一郎プロデュースによる瀬戸内海の島々を舞台に開催される現代美術の国際芸術祭は2010年に開催され、トリエンナーレ形式で、第1回第2回は2013年瀬戸内国際芸術祭開催予定。
直島の他、約100年前の銅の精錬所跡地のある犬島、2010年10月開館した 内籐礼のアート、西沢立衛の設計による豊島美術館のある豊島、村の古民家をアート展示して再生した男木島、女木島 を、ルートとする。


ちなみに、「豊島美術館」を設計したのは、
建築界のノーベル賞といわれる米プリツカー賞を、2010年に受賞した西沢立衛氏。

妹島和世氏と西沢立衛氏の2人は、共同の設計事務所SANAAで活動し、
日本や欧米で数々の作品を残している。

日本人のプリツカー賞受賞は故丹下健三、槙文彦、安藤忠雄に次ぐ。

安藤忠雄氏は、たんなる設計だけではなく、豊島の子供たちなど島民と共に行ったオリーヴ植樹を一端とする、瀬戸内緑化計画を進めているそうだが…

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 真夏だというのに、豊島美術館の周辺は、妙に「禿げていた」…叫びあせる