Badマイケル&かもめのジョナサン① | ☆Dancing the Dream ☆

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with ☆Michael Jackson☆

■Edmund Perry エドモンド・ペリーの事件

1985年6月12日、ハーレムの住人、17歳のエドモンド・ペリーは、私服警官によって射殺された。彼が、優等生で、奨学金でスタンフォード大学に在籍して通っていたことが明らかになった時、ニューヨーク市で一時期、抗議の嵐となった。しかし、証言者は、ペリーと、彼の兄弟は、この警官を襲おうとしていたと主張し、この射撃は、正当であると判決を下された。


この青年の事件は、後に、


TVドラマ、(TV movie- Murder Without Motive: The Edmund Perry Story)


また、著書(Education and Killing of Edmund Perry↓に表わされた。


さらに、マイケルジャクソは・・・

ペリーによってインスパイアされ“Bad”を制作する。

*Recorded January 1987

*Released September 7,1987

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   エドモンド・ペリー    著者・アンソン   " Bad "SF、主人公ダリル


■The Education and Killing of Edmund Perry written by Robert Sam Anson

↓この本について、こんなレヴューがあったので訳してみた・・

Journalist Anson has written a compelling account of the life and death of a Harlem teenager. This black adolescent was different, however. He was a graduate of Phillips Exeter Prep School and had been admitted to Stanford University. When he was killed by a white policeman during an alleged mugging attempt in 1985, public reaction, especially among blacks, blamed the police for yet another needless murder of a young black man, in this case a kind of "black hope."

Anson uncovered a much more complex story. Perry was trapped between two worlds the upper-class, high-expectation milieu of Exeter and the "streets" of Harlem. He sold drugs at Exeter and tried to fit into Harlem, in part with street crime. Anson tells this tragic story with great empathy.

ジャーナリストアンソンは、ハーレムのティーンエイジャーの生と死の説得力ある記録を書いた。この黒人青年は異なっていた。彼はPhillips Exeter Prep School の卒業生で、スタンフォード大学に入学していた。彼は1985年に路上強盗未遂したと主張しする白人の警官によって殺された、その時、社会の反応は、殊に黒人の間では、 このケースにおいて、黒人の希望”という意味で、黒人青年のさらにもう一つの殺人だと、その警官を非難した。

アンソンは、さらにもっと複雑な物語りを明らかにした。ペリーは、二つの世界の間、すなわち、上流階級、Exeter の高い期待の環境と、ハーレムの“ストリート”の罠に捕らえられていた。彼はエクスターでドラッグを売って、ストリートの犯罪の部分のハーレムに適合しようとしていた。アンソンは、大いに同情心をもって、この悲劇的な物語を語る。


■「かもめのジョナサン」・考


Most gulls don't bother to learn more than the simplest facts of flight

―how to get from shore to food and back again.
ほとんどのカモメは、岸から獲物までたどり着き、また戻ってくるという
単純な飛ぶという事実以上のことを学ぶ手間などは取らないものです。

For most gulls, it is not flying that matters, but eating.
ほとんどのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることなのです。

For this gull, though, it was not eating that mattered, but flight.
しかし、ジョナサンにとって重要なのは、食べることではなく、飛ぶことなのです。

More than anything else, Jonathan Livingston Seagull loved to fly..
カモメのジョナサン・リヴィングストンは、なによりも飛ぶことだ好きでした。

This kind of thinking, he found, is not the way to make one's self popular

with other birds.
このように考えることは、他の鳥たちには評判が悪くなる方法だということは、
ジョナサンはわかっていた。

Even his parents were dismayed as Jonathan spent whole days alone, making hundreds of low-level glides, experimenting.
ジョナサンの両親でさえ、ジョナサンが、一人で一日中低空飛行の実験を

続けるので狼狽してるほどだった。


かもめのジョナサンは、Bad?!!


Kobe Bryant Michael Jackson


「“人と異なっている”ということを恐れるな。」


「情熱を持っている時、駆り立てられている時、


 人は、それから引き離そうとする、そして“普通のもの”にするため、


 箱にピッタリと納まるように引っ張ろうとするだろう。」


「それは、問題ない。駆り立てられることはね。


 君がやりたいことに取り付かれることはOKなんだ。


 それは、全く良いことだよ。


 それから反れずにいることを恐れてはいけない。」・・・という言葉と共に、


MJが、コービーブライアントに与えた本は、



「かもめのジョナサン」です・・・かもめ


MJは、この著書から、何を読み取ったのでしょうか?


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   Chuck Cooper     Earl Lloyd        "Bill" Russell 


かもめ 黒人の「かもめのジョナサン」たち かもめ

46年にNBAの前身BAAが発足した時、黒人は1人もいなかった。
初めて黒人がNBAのコートに立ったのはそれから5年後のことだ。

最初にドラフトされたのはセルティクスから指名されたチャック・クーパー
それを受けワシントン・キャップスがアール・ロイドを指名。

最初にコートに立ったのは、スケジュールの関係でロイドが最初の黒人となる。

クーパーはゲーム後にホテルは泊めてもらえず、1人で夜汽車で帰ったことも

あったという。スーパースターでチームメートのボブ・クージーがサンドイッチを

持って見送りに来てくれたことが嬉しかったと当時を語る。

さらに15年後、NBAのみならず、アメリカのメジャースポーツの中で、

最初の黒人ヘッドコーチとなったのは、セルティクスの

「ビル・ラッセル」である

ビル・ラッセルは、セルティクスを世紀の金字塔、八連覇に導いた、名プレイアーである。この記録は、NBAはもちろんのこと、未だアメリカプロスポーツ史上どのチームも成し遂げていない。


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ビル・ラッセル最大の武器、

セルティックスの戦術は、『Hey, Bill !

チームメイトがラッセルの助けを呼ぶことから名付けられた

NBA伝説の人・ビル・ラッセル

『八連覇達成の65-66年、ファイナル、レイカーズとの第1戦にセルティックスはオーバータイムの末に敗れるが、敗戦のショックも覚めやらぬ試合終了後、コーチ・アワーバックから衝撃的なコメントが発表された。アワーバックはこのシーズン限りをもってヘッドコーチの座から退くことを宣言し、さらに後任にビル・ラッセルを指名したのである。

この発表はラッセルが現役選手のまま、ヘッドコーチの重責を兼任し、

さらにはアメリカプロスポーツ史上初の黒人ヘッドコーチ誕生を意味した。

名コーチ、アワーバックの引退、ラッセルのコーチ就任、初の黒人ヘッドコーチの誕生・・この驚くべき発表は、セルティックスの選手に敗戦のショックを忘れさせ、

最後はこの日足に骨折を抱えたままでプレイを続けたラッセルの活躍でセルティックスが勝利。空前絶後の八連覇達成する。』


↑この偉大なビル・ラッセルのストーリーに、

           敬意を抱かぬNBA黒人選手はいないでしょう。



ビル・ラッセルのもうひとつの物語

『ディフェンスの神様とうたわれたラッセルは、現役時代得点王のウィルト・チェンバレンとNBA史上最も有名なライバル関係にあった。しかし、私生活では親友としての関係を築いており、感謝祭にはラッセルがチェンバレンのもとに食事に訪れるのが恒例となっていた。この良好な交友関係が、壊れる時がくる。

ラッセルは、ただ一度、彼を批判したことがきっかけとなる。

ある接戦となったこの試合で、膝の故障を理由にベンチに退いたチェンバレンに、ラッセルは「彼は逃げ出した」と発言。

この事件がきっかけとなって2人の関係は極端に悪化し、2人が直接会話することは無かった。以後、ラッセルが公式に謝罪し、親友を取り戻すのに20年以上の歳月を要したという。

チェンバレンが急逝した時、ラッセルは彼の死を告げられた2番目の人物だった。』


この二人の逸話についても若いNBA選手とて、知らぬ者はいないのです。



さて、マイケルがラッパーとして、作品のパートナーに起用したシャック、


また、マイケルをメンターと慕うコービー


この二人の天才バスケットボールプレイヤーは、


先述のスポーツ界のパイオニア、NBAの扉を開けた黒人プレイヤーら、


先達の後継者なのです。



昨日・・・


レイカーズのシャックとコービーの不仲その後どうなったのか?


修復不能とみられた彼らの関係には、のちに続く熱い物語がある。


・・と述べました。


「世紀の仲直り」の物語ーーーーー


アメリカでは、キング牧師の栄誉を称え、彼の誕生日(1月15日)に近い


毎年1月第3月曜日をマーティン・ルーサー・キング・デーとして、祝日にしています。


NBAの80%を占めるといわれている黒人選手にとっても、


この日は、大変重要な日なのです。

2006年1月16日、1月の第3月曜日の休日、


それは、「マーティン・ルーサー・キング・デー」のことでした。



シャック&コービー、世紀の仲直りの影にビル・ラッセルあり

『 前年2005年の暮れ、クリスマスのゲームではお互いそっぽを向いていた。

ところが年を明けて2006年、マーティン・ルーサー・キング・デーのこの日ーー

コービーがゲーム前、センター付近で寝そべってトレーナから

脚のストレッチを受けている時ーーー

いきなりシャックが近付き、コービーの第2子誕生の祝いの言葉を掛けたのだ。

ーーー実はその3日前シャックは、伝説の人物ビル・ラッセルとバスケットやライバルについてシアトルで話をしていた。

ラッセルは、自分が経験した、ウィルト・チェンバレンと間に起きたことについて、

「私は、嫌いだったライバルはいなかった」と言い、

シャックに「コービーとの愚かな仲違いはやめて、16日のマーティン・ルーサー・キング・デーにはコービーと仲直りすべきだ。」と忠告したのだ。

ーーーラッセルの輝かしいキャリアは、時代背景を鑑みても、人種差別に対する困難な闘いの連続でもあったいうことは推測できる。

事実、彼は、モハメドアリの徴兵拒否を支持し、黒人奴隷により建国されたアフリカのリベリアに土地を購入するなどの運動を展開し、本名の「William Felton "Bill" Russell」のミドルネームから、マルコムXをもじり、"フェルトンX"と呼ばれるなど、FBIからマークされたこともあったのだ。この時代に、白人社会に切り込み、生きたラッセルの口から発せられるキング牧師に象徴される言葉は重い。

シャックにとってラッセルは憧れの人であり、素直にその言葉に従ったのだ。

苦悶の時を経て、勝利を得たコービーに、ファイナルMVPが贈られた。

この時、彼にトロフィーを授与したのが、長く隠遁していた人物。

ビル・ラッセルその人だった。』


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お読み頂き 、誠にありがとうございましたおじぎ