10月19日 ~ 夭折の天才、デュ・プレを偲ぶ日 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、今日もお元気でしたか?ハロウィン  新しい一週間もがんばりましょ~音符

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それをお題に書いています。

(写真はwebからお借りしました)

 

今日、10月19日は・・・天才チェリスト 「ジャクリーヌ・デュ・プレが亡くなった日」 です。

 

 

Jacqueline du Pré:1945.1..26 - 1987.10.19; イギリスのチェロ奏者

 

今日は伝説の天才チェリスト、デュ・プレの命日です。亡くなってまだ33年しか経ってないんですね。そして今年は生誕75周年。普通だったらまだお元気でおられてもおかしくない年齢です。

彼女は16歳でプロ・デビューすると瞬く間にスターになりましたが、人気絶頂の26歳で病気に襲われ2年後に引退、42歳で夭逝しました。

 

私は彼女のCDを何枚か持っていて、コンサートの予習などでよく聴いていますが、アルバムの音だけでもすごいです。野性的といったらいいのか、魂の叫びのような音。聴くこちらも襟を正して聴かざるを得ないような演奏です。

 

 

ジャクリーヌ・デュ・プレ(愛称ジャッキー)は、第2次世界大戦終結直前の1945年1月26日にイギリスのオックスフォードで、ともに音楽好きな両親のもとに次女として生まれました(祖先はフランス沿岸のジャージー島の出身なのでデュ・プレというフランス風の姓)。 4歳の時にラジオで聴いたチェロの音色に惹かれてチェリストを目指すことになります。当初は母親のアイリスからチェロを習い、5歳からはロンドン・チェロ・スクール(総長はバルビローリ、後援者はパブロ・カザルス)で姉のヒラリーとともに学びました。

ジャッキーはみるみる才能を開花させ、10歳で国際コンクールに入賞、次に進学したギルドホール音楽学校ではウィリアム・プリ―スに師事、ジャッキーは彼を「チェロのパパ」と呼んで慕ったそうです。12歳でBBC主催のコンサートに出演しました。13歳の時には、エルガーのチェロ協奏曲を4日間ですべて暗譜して弾きこなしたそうです。

当時の使用楽器は、彼女の名付け親で支援者のイスメナ・ホーランドから贈られた1673年製のストラディバリウスでした(後年このチェロは”ジャクリーヌ・デュ・プレ”と名付けられ、ソ連のチェリストのニーナ・コトワが所有しました)。

1960年(15歳)ギルドホール音楽学校のエリザベス女王特別賞を受賞。夏にスイスのツェルマットでパブロ・カザルス(当時83歳)のマスタークラスに参加。

 

1961年(16歳)にロンドンで正式なプロ・デビューを果たしました。このときブラームスのチェロ・ソナタ第1番、バッハの無伴奏チェロ組曲第5番を演奏、”天才少女”とセンセーションを巻き起こしました。同年、エルガーのチェロ協奏曲やヘンデルのソナタト短調などを録音、高い評価を得ました。
この頃ジャッキーは

 

1962年(17歳)3月にBBC響とエルガーのチェロ協奏曲を初めて聴衆の前で演奏、夏にはイギリスの国民的音楽祭「プロムス」に初出演、マルコム・サージェントの指揮で再び同曲を演奏、喝采を浴び、以後「プロムス」でこの曲の定番のソリストとなりました。パリに半年間留学、名チェリストのポール・トゥルトゥリエに師事ました。 ブルッフやバッハなど多くの曲の録音もしました。
 

1964年(19歳)にジャッキーは、生涯を通して使用した愛器”ダヴィドフ”(1713年製のストラディバリウスで、ストラディバリが制作した60余りのチェロの中でも屈指の名器といわれるもの)と出会いました(支援者から贈られたそうです。当時8万4千ドル。) このチェロはかつてチャイコフスキーが「チェロの帝王」と命名したカルル・ダヴィドフが愛用していたものです。

彼女はこの名器の「予測不能さ」に悩み、かつ愛しました。

1965年(20歳)1月にディーリアスの「チェロ協奏曲」を収録(初の協奏曲の録音)。

BBC響とのアメリカツアーでドラティ指揮でエルガーのチェロ協奏曲を演奏し、カーネギーホールにデビュー。「全盛期のカザルスに匹敵する」「デュ・プレとエルガーの協奏曲はお互いのために存在しているようだ」と大絶賛されました。 8月にバルビローリ&ロンドン響と録音したエルガーのチェロ協奏曲は、彼女の同曲の音源の中でも最高傑作といわれています。

 

1966年(21歳)にはロシアに留学、ロストロポーヴィチから4か月間学びました。 友人宅のクリスマス・パーティで3歳年上のピアニスト&指揮者のダニエル・バレンボイムと出会いました。 

1967年4月にバレンボイムと初共演しハイドンのチェロ協奏曲を演奏、ふたりは一気に愛が深まり婚約を発表、出会いから半年後の同年6月15日(22歳)にイスラエルのエルサレムで結婚しました。ユダヤ人のバレンボイムに合わせてジャッキーはユダヤ教に改宗したそうです。

ふたりは数々の録音を残しています。また、バレンボイムは彼女にセルジオ・ペレッソン製の近代的チェロも贈ったそうです。

 

デュ・プレとバレンボイム

 

 

ふたりのインフォーマルな映像です。冒頭でデュ・プレがピアノを弾いていますが、ピアノもうまかったんですね。(3分36秒)

 


1969年(24歳)シューベルトのピアノ五重奏曲「ます」の公演に密着したドキュメンタリー映像を収録(バレンボイムとデュ・プレの他、ヴァイオリンはパールマンとズーカーマン、コントラバスはメータというそうそうたるメンバー)。 この他ズーカーマン、バレンボイムとベートーヴェンのピアノ三重曲の10曲をスタジオ録音。
1970年(25歳)にはバレンボイムの指揮下でのドヴォルザークやエルガーのチェロ協奏曲の演奏や録音、彼のピアノでのベートーヴェンのチェロ・ソナタなどの録音など夫婦でたくさんの共演をしました。

1971年(26歳)年明けにバレンボイム指揮でサン=サーンスのチェロ協奏曲第1番を共演しますが、その後指先の感覚が鈍くなるなど身体の異変に気付きました。症状は徐々に悪化しましたが、当初は原因が分からず心因性と判断され、予定をすべてキャンセルして休養しました。12月に一時体調が回復し、夫婦でショパンとフランクのチェロ・ソナタを録音、これが最後のスタジオ録音となりました。

1972年(27歳))7月にチャイコフスキーの「ピアノ三重奏曲”偉大な芸術家の思い出”」をバレンボイム、ズーカーマンとラジオ用にライブ録音。

 

1973年(28歳)1月にバレンボイム指揮クリーヴランド響とラロのチェロ協奏曲をライブ録音。2月にメータ指揮ニュー・フィルハーモニア響とエルガーのチェロ協奏曲を演奏(これがイギリスでの最後の演奏会となる)。

4月にはバレンボイムやズーカーマンと初来日。N響とドヴォルザークのチェロ協奏曲などを演奏する予定でしたが、体調不良のため急遽出演がすべてキャンセルとなりました。この年の秋に「多発性硬化症」と診断され、演奏活動からの引退を余儀なくされました。発症から2年という短期間で音楽家生命を断たれることになりました。その後数年はチェロの教師として後進の指導を行いました。


1975年(30歳)にエリザベス2世女王から大英帝国勲章(OBE)を授与されました。同年バレンボイムがショルティの後任としてパリ管の音楽監督に就任。
1978年(33歳)に「ジャクリーヌ・デュ・プレ基金」設立記念コンサートでプロコフィエフの「ピーターと狼」にナレーターで参加。
1979年(34歳)母校のギルドホール音楽学校でBBC用にマスタークラスを4回行いました。エリザベス皇太后から音楽博士の名誉学位を授与。 以後8年間は人前には出ることはありませんでした。

1987年の今日、10月19日にロンドンの自宅で永眠しました。病気の進行で視力も衰え、最後は歩行や話すことも出来なくなっていたそうです。14年の過酷な闘病生活の末、42歳の若さでの他界でした。2日後にユダヤ式の葬儀が行われました。 彼女の愛器”ダヴィドフ”は、ヨー・ヨー・マに貸与されています。

ちなみに彼女の他界の翌年に、バレンボイムはユダヤ系ロシア人ピアニストのエレーナ・バシュキロワ(ギドン・クレーメルの前妻)と再婚しています。バレンボイムはジャッキーが没する前からパリでエレーナと同棲しており、すでに2人の子供をもうけていました。

・・・と書くと、バレンボイム、ひどい奴!と思われる方も多いと思いますが、本当のことはふたりにしか分からないと私は思います。

 

 

ロンドンのGolders Greenのユダヤ人墓地にあるデュ・プレのお墓

 

 

 

 

彼女の生涯は1998年に「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」という映画にもなりましたが、これは内容がとてもスキャンダラスとしてロストロポーヴィチやパールマンらが新聞社に抗議文を送って公開に反対する意を表明するなど物議をかもしました。

この映画はジャッキーの姉のヒラリーと弟のピアスの共著である「風のジャクリーヌ ある真実の物語」という本が原作となっていますが、自然児だったジャッキーと彼女を守るために一体となった姉夫婦や家族、壮絶な闘病生活と家族の葛藤(ある意味犠牲)などが書かれてあるようです。

 

ヒラリー・デュプレ、ピアス・デュ・プレ著「風のジャクリーヌ ある真実の物語」(ショパン)

 

彼女が発症した当時は「多発性硬化症」は有効な治療法がなかったそうですが、今では数多くの治療法が確立され、多くの患者さんが普通に日常生活を送れるようになっているそうです。

 

彼女の演奏はまるで魂がチェロに乗り移ったかのように、あるいはチェロが彼女の手足の一部であるかのように、力強く情熱的で躍動感あふれるものでした。情緒過多と批判されることもあったようですが、バルビローリは「若いときはこれくらいがちょうどよい」と言ったそうです。

彼女がもっと長生きしていたら、その後も演奏活動をしていたら、その演奏スタイルはどんな風になっていったんでしょうね・・・

 

 

それでは今日の曲です。フォーレの「エレジー(悲歌)」です。

 

フォーレ:「「エレジー(悲歌)」  (6分43秒)

/ ジャクリーヌ・デュ・プレ (Vc)、ジェラルド・ムーア

 

 

彼女の実際に弾く姿も観たいですよね~。

彼女の代名詞ともなったエルガーの「チェロ協奏曲」です。バレンボイムとの共演です。

 

エルガー:チェロ協奏曲 ホ短調 Op.85   (32分38秒:第3楽章;13分0秒~、第4楽章;18分18秒~)

/ ジャクリーヌ・デュ・プレ (Vc)、ダニエル・バレンボイム&ロンドン・フィル (1967年)

 

ほんとにすごい演奏です。

ちなみに、一番最後に彼女の小さいころからの写真、そしてそのあとバレンボイムとふたりで追いかけっこして戯れてる姿がちょこっとありました。

 

 

 

           

     ケンジントンにあるデュ・プレ像       オックスフォードのSt.Hilda's collegeにあるデュ・プレ像

 

 

 


「ジャクリーヌ・デュ・プレ」

 

「ジャクリーヌ・デュ・プレ」という名前のつるバラがあるそうです。
1989年、ガーデニング系のハークネス社はジャッキーが「きれいだ」と言って香りを好んだ白バラに彼女の名前を付けました。

彼女はもうこの世にはいませんが、彼女の遺した音はこれからもずっと私たちを魅了し続けると思います。

 

 

ジャクリーヌ・デュ・プレ (1945-1987)