9月26日 ~ バルトーク、異郷で他界 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

9月最後の週末ですね~音符 

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それをお題に書いています。(写真はwikipediaなどwebからお借りしました)

 

今日、9月26日は・・・ハンガリーの作曲家 「バルトーク・ベーラの命日」 です。

 

Bartók Béla Viktor János:1881.3.25-1945.9.26; 

ハンガリーの作曲家、ピアニスト、民族音楽研究家(写真は1927年(46歳))

 

今日はバルトークの命日です。没後75年なんですね~。バルトークは東欧ハンガリーが生んだ最大の作曲家のひとりです。

ハンガリーは日本と同じで苗字を先に言うので、それに習ってバルトーク・ベーラとして書きます。 私は彼の「ルーマニア民族舞曲」は大好きなんですが、それ以外は・・・正直ちょっと苦手意識があります汗 なので今日は苦手意識をなくすための第一歩として彼のことをもっと知ろうと思います。

 

 

バルトーク・ベーラは1881年3月25日にハンガリー南部のナジュセントミクローシュ(現ルーマニア領のスンニコラウ・マーレ)で生まれました。(当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国)

彼が生まれた1881年は、同じハンガリー出身のリストが70歳、ワーグナー68歳、ブルックナー57歳、ブラームス48歳というそうそうたる大御所たちがまだまだ現役だったころです。

 

彼の父親は農学校校長でかつ熱心な音楽愛好家、母親はピアノ教師でした。バルトークは4歳頃には自己流ですでに40曲くらいのピアノ曲を弾いたそうで、5歳頃から母から正式にピアノを学び始めました。7歳のときに父親が32歳で病死したため、ピアノ教師として生計を立てないといけなくなった母親の都合で各地を転々と移り住みました。10歳のときにピアニストとして演奏会デビューをしますが、その後はポジョニ(現スロヴァキアのヴラチスラヴァ)のギムナジウムで学びました。

 

1898年(17歳)にウィーン音楽院を受験し合格するも、翌年18歳でブタペスト王立音楽院(後のリスト音楽院)に進学、1903年(22歳)に卒業試験免除で卒業、同年ベルリンでデビューリサイタルを行い、ブゾーニらから称賛を受けました。 1904年(23歳)に初めてマジャール人(ハンガリーの主要民族)の民謡に触れました。

 

18歳の頃のバルトーク

 

1905年(24歳)パリのルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場、作曲部門では入賞は果たせず、奨励賞の第2席、ピアノ部門ではバックハウスに次ぐ2位となりました。 このときにドビュッシーの音楽を初めて知り、大きな影響を受けました。

 

この年に彼の音楽人生における大きな出会いがありました。下宿先の女性が口ずさんでいた素朴な民謡に心を奪われたのです。「これこそが私の求めるものだ」と感嘆しました。

その後埋もれている民謡を記録するため、重たい蓄音機をかついで村々を巡りました。しかし、村人たちは”怪しい機械”を持ったよそ者を警戒、蓄音機に魂が吸い取られるのでは、という恐怖心もありそう簡単には民謡を録音させてはくれませんでした。 村人の信頼を得るために、バルトークは彼らの農作業を手伝ったり集会に参加して一緒に酒を飲んだりしながらだんだんと彼らの心を開かせ、やっと蓄音機の前で歌ってくれることになったそうです。

バルトークは採集した音楽をすべて楽譜に書き起こしました。こうして約2万もの民謡を集めたそうです。

『彼らの仲間に入って間近に観察する特権を与えられたことは、非常に光栄なことです。農民たちと過ごした日々は、私の人生の中で最も幸せな時間でした。』

 

 

 

 

1906年(25歳)に知人の紹介で、同じハンガリー人で1歳年下のコダーイ・ソルターン (1882-1967)に出会いました。コダーイもバルトークと同じく民謡の収集をしていて、ふたりは一緒にハンガリー各地の民謡収集を行うようになりました。トルコやアルジェリアまでにも採譜に行きました。

 

コダーイ・ゾルターン (1882-1967)

 

 

バルトークとコダーイ

 

 

民謡を録音するバルトーク (1908年)

 

1907年(26歳)に母校のブタペスト王立音楽院のピアノ科教授に就任、1934年(53歳)までの27年間同職を務めました。長期休暇時には民謡の採集に出かけました。

1909年(28歳)に音楽院の女学生、マルタ・ツィーグラーと結婚、翌年には長男ベーラが生まれました。英国の作曲家ディーリアスと知り合い影響を受けました。

 

1911年(30歳)に唯一のオペラとなる「青ひげ公の城」(ハンガリー語)を書きあげ、ハンガリー芸術委員会賞に応募するも委員会から「演奏不能」を判断され、拒絶されました。バルトークは失望し、その後2、3年はほとんど作曲せず民謡の収集と研究に時間を費やしました。

 

1914年(33歳)第一次世界大戦が勃発すると、その影響で民謡の収集が困難となり作曲活動に復帰します。1915年(34歳)に「ルーマニア民族舞曲」を作曲(これ私も大好きです音符)

1918年(37歳)にバレエ音楽「かかし王子」(「木彫りの王子」)の初演が成功したのをきっかけに、お蔵入りとなっていたオペラ「青ひげ公の城」も初演され成功、国際的な名声を得ます。

 

メモオーストリア=ドイツ系音楽への嫌悪からフランス近代音楽風の作風を取り入れたバルトークは、さらにパリで大ヒットとなったストラヴィンスキーの影響も受け、「青ひげ公の城」、「かかし王子」、「中国の不思議な役人」(「不思議なマンダリン」)という舞台3部作を書きました(この3つはそのまま「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」に対応しているといわれます)

 

1906年に始めた民謡の収集活動は1918年で終了しました。この年に第一次世界大戦が終結、ハンガリーは二重帝国から分離独立を果たしますが、敗戦国となったためトリアノン条約により自国領土のうちスロヴァキア、クロアチア、トランシルヴァニアは戦勝国に割譲されました。

1921-22年(40-41歳)にイギリスやフランスへピアニストとして演奏旅行へ行った際にラヴェルやストラヴィンスキーと出会い交流しました。

1923年(42歳)に14年連れ添ったマルタ夫人と離婚、ピアノの生徒だったパーストリ・ディッタと再婚、翌年次男ペーテルが誕生(ペーテルは後にアメリカで録音技師として活躍)。

 

バルトークと次男のペーテル

 

1926年(45歳)に「ピアノ協奏曲第1番」を作曲、翌年の初演ではフルトヴェングラー指揮のもと自身がピアノを演奏しました。このときにヤナーチェクと知り合いました。

1929年(48歳)から翌年にかけてアメリカやソヴィエトへ演奏旅行を行い、パブロ・カザルスや同郷のヴァイオリニストのシゲティらと共演。

1934年(53歳)に長年務めた音楽院教授を退任し、科学アカデミーの民族音楽研究員となりました。

 

1936年(55歳)に「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」を作曲(映画「シャイニング」でも使用されました)。同年ナチス・ドイツの宣伝相ゲッペルスがストラヴィンスキーやシェーンベルクの音楽を退廃芸術と非難したことにバルトークは抗議、ドイツ外務省に手紙を送ったそうです。

 

1939年(58歳)に第二次世界大戦が勃発すると、ナチス嫌いのバルトークは(同年の母親の死もあり)アメリカへの移住を決意、1940年10月に音楽院で「お別れコンサート」を開いた後、民謡の膨大な資料とともに夫婦で渡米しました。アメリカでは友人たちの協力でコロンビア大学の客員研究員となりました(翌年次男ペーテルも渡米、後にアメリカ海軍に召集されています)。

しかし、アメリカでの新生活は彼にとって予想外にとても苦しいものとなりました・・・汗

 

1941年(60歳)、戦争の影響でハンガリーからの年金や、ヨーロッパからの出版印税などの入金は途絶えるなど生活は苦しいものでした。バルトークは、同時期にアメリカに亡命してきているストラヴィンスキーほどヒットメーカーでもなく、アメリカの聴衆にとっては、彼の名前は有名ではあるけれど音楽は難解で分かりにくい、という評価が定着していました。 ニューヨークの狭いアパート暮らしを余儀なくされ、収入は5分の1に激減、生活のために大事なピアノまで手放しました。 自作のコンサートもなければ作品の委嘱もない、彼はすっかり創作意欲を失くしてしまいます。

『私がアメリカで名を成すには何十代も後までかかりそうだ』 とそのころつぶやいています。

 

渡米後3年間は作曲できず、さらには白血病を発症し(本人は結核と思っていた)体重は40kgまで落ちたそうです。 友人のシゲティやフリッツ・ライナーらは彼の衰弱ぶりに驚き、生活費の援助を申し出ますが、『たとえ飢え死にしようとも、いわれのないお金は受け取れない』と断ったそうです。

 

ならば、と友人たちは当時のアメリカ音楽界の大御所、ボストン響の指揮者だったクーセヴィツキーを頼りました。彼を通じて「ボストン響の音楽監督就任20周年を記念する新作」依頼をしたのです。ちなみに報酬は当時の会社員の半年分の給料に相当する1000ドルだったそう。

1943年(62歳)、「病気で作曲できる自信がありません」というバルトークに、クーセヴィツキーは「この依頼には何の強制力もないので機の熟したときに取り掛かってもらえればいい」と説得、強引に手付金の500ドルを渡したそうです。 バルトークは単なる金銭援助でなく作曲家として実力を認めてもらえたことに感激して、「管弦楽のための協奏曲」全5楽章を55日間で書きあげました。翌1944年(63歳)の初演では、明るく前向きな曲調がアメリカの聴衆に受け大成功、彼の最高傑作のひとつとなりました。
初演したクーセヴィツキーは、「この50年で書かれた最高の作品」と絶賛しましたが、バルトークは、「彼はショスタコーヴィチの曲を演奏した後でも同じことを言ってたから割引いて聞かないとね」と皮肉っています。

メモバルトークはこの曲に故郷への愛とファシズムや戦争への皮肉を込めました。

旋律にハンガリーで1930年頃に流行った「美しきハンガリー」が使われていたり、第4楽章にはヒトラーが好きだったレハールの「メリー・ウィドー」の一節が使われ(これはショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」の中でも引用されている)、ヒトラー、ファシズム、戦争を笑い飛ばすようなメロディに変えられています。バルトークの抗議の音楽ともいえ、人生最後の叫びともいえます。

 

左からバルトーク、ディッタ夫人、次男ペーテル

 (1944年7月 サラナクレイクのセイジマン・コテージ前で)

 

同年、メニューインの委嘱を受けた「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」を作曲、11月に初演され、12月に前述の「管弦楽のための協奏曲」の初演が成功、ようやく彼にも運が向いてきて創作意欲も湧いてきたと思われましたが、1945年の今日、9月26日に白血病のためニューヨークの病院で他界しました。64歳でした。 第2次世界大戦が終わり、これからという時でした。

ディッタ夫人の誕生日プレゼントとして書いた「ピアノ協奏曲第3番」と、「ヴィオラ協奏曲」に着手中でした(のちに友人のシェルイ・ティボールによって補筆完成された)。

 

彼は遺言で、『ナチス・ドイツや共産主義ソ連の影響が残る間は、祖国ハンガリーに埋葬しない』 と残していたことから、亡骸は当初ニューヨーク州のファーンクリフ墓地に埋葬されました。遺族は葬儀費用もないほど貧しかったため、アメリカ作曲家協会が費用を全部負担したそうです。
その後ハンガリーで民主化が進んだことより、バルトークの弟子だったハンガリーの指揮者ショルティとバルトークのふたりの息子の尽力で、1988年7月に棺がハンガリーに移され、国葬を経てブタペストのファルカシュレーティ・テメトゥー墓地に改葬されました。11年後にはショルティが他界、現在バルトークの隣に眠っています。

 

 

 

ブタペストのファルカシュレーティ・テメトゥー墓地にあるバルトークのお墓

             (向かって左にディッタ夫人が眠っています)

 

彼が盟友コダーイらと集めた民謡の収集は、マジャール民謡が2700、マジャール・ルーマニア民謡が3500、トルコと北アフリカのアラビア民謡が200、合計6400にものぼります。これらは民謡集12巻にまとめられました。
彼は他の国民楽派とは異なり、民謡を直接自作に採り入れることはほとんどありませんでした。ハンガリー民謡を自身の内部で消化した上での独自の音楽様式を作りました。独自の手法で調性を確立、複数のメロディ・ラインが絡み合った先に不協和音を置く技法を得意としました。自作を速度記号だけでなく、「4分15秒」「60分」など演奏時間まで厳密に指定しました。
 


それでは今日の曲です。前述した「管弦楽のための協奏曲」より第3楽章「エレジー(悲歌)」です。

 

バルトーク:「管弦楽のための協奏曲」より 第3楽章「エレジー(悲歌)」 (7分3秒)

/ 小澤征爾&ボストン響

 

 

ショルティの指揮の全曲も。

 

バルトーク:「管弦楽のための協奏曲」   (39分5秒:第1楽章;1分20秒~、第2楽章;10分54秒~、第3楽章;17分23秒~、第4楽章;24分10秒~、第5楽章;28分28秒~))

/ ショルティ&シカゴ響  (1991年)  

冒頭にショルティが英語でちょっとだけ解説しています。

 

 

バルトークはハンガリー時代から節約生活を送り、衣服や食事だけでなく時間も無駄にしなかったそうです。彼にはいわゆる娯楽の時間はなく、睡眠時間以外はほとんど仕事、湖でボートに乗っているときでさえ五線紙を取り出し、電車やバスに乗っている間にも仕事や勉強をしていたそう。封筒をファイルに利用したり、手紙の裏面はスクラップ用紙にするなど物も大切に使っていたそうです。彼のお人柄が表れていると思います。

それしても、彼も戦争に翻弄されたひとり。渡米してからの不遇な日々を想うとなんともいえない気持ちになりました・・・

 

 

『私の音楽自体に語らせよう。私の口からは自分の作品を説明しない。』

(バルトーク・ベーラ (1881-1945)

 

 

*明日、明後日のこのコーナーはお休みします。