皆さま、今日も一日お元気でお過ごしでしたか?![]()
梅雨前線はまだ九州北部付近に停滞しているみたいですので、九州地方の皆さまは十分に警戒してください! 関係者の方々も含め皆さま体調を崩されませんように・・・
「今日はなんの日」のコーナーです。
出典は、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。(写真はすべてwikipediaなどwebからお借りしました)
今日、7月11日は・・・アメリカを代表する作曲家 「ジョージ・ガーシュインの命日」 です。
George Gershwin : 1898.9.26-1937.7.11 ; アメリカの作曲家
ガーシュインの名前は皆さまご存知のことと思います。
ポピュラー音楽とクラシック音楽の両面で活躍してアメリカ音楽を作り上げた作曲家です。
彼は38歳という短い生涯でしたが、約500曲にものぼる歌曲を作り、”20世紀のシューベルト”とも呼ばれました。
彼の本名はジェイコブ・ガーショヴィッツ (Jacob Gershowitz)といいます。ロシア系ユダヤ人で、彼の父親はロシアでのユダヤ人への迫害を逃れて、1890年代初めにアメリカに移住してきました。
ジョージは1898年9月26日にニューヨークのブルックリンで次男として生まれました。家は貧しく、音楽とは無縁の幼少期を過ごしました。そのころ彼は不良少年で、周囲の人から「将来はろくな人間にならない」と言われていたそうです。
小学生のときに弟がヴァイオリンで弾いたドヴォルザークの「ユーモレスク」を聴いたのが初めて触れたクラシック音楽でした。12歳のとき、両親が兄のために中古のピアノを購入しました。
すると、ピアノを見たジョージは、おもむろにピアノの蓋を開け当時の流行歌を見事に弾いたのです。びっくりした母親が彼に尋ねると、近所の友達の家に自動ピアノがあってそれでよく遊んでいたのだそうです。兄は自らピアノを習うことを辞退し、代わりにジョージがレッスンを受けるようになりました。
ピアノの腕はどんどん上達し、16歳の時に商業高校を中退して、マンハッタンのティン・パン・アレー(Tin Pan = 釜鍋を叩く音からこう呼ばれた⇒楽譜出版社街のこと)の新曲宣伝係のピアニスト(=ソング・プラッガー)になりました。
当時はレコードはまだ高価だったため、音楽産業の中心は楽譜販売で、各会社は売り場に試演ピアニストを置いて客がその場で聴けるようにしていました。その試演ピアニストのことをソング・プラッガーと呼びました。
ジョージはこの仕事を通じて様々な楽曲に触れ、次第にソング・プラッガーとして秀でた存在となりブロードウェイの大手ハームス・ミュージック社と作曲家として契約します。
1919年にラグタイム風の楽曲「スワニー」を作曲、当時の大人気歌手アル・ジョンソンに気に入られ彼が繰り返し歌ったことから大ヒット、楽譜の売り上げは100万枚を突破し、弱冠21歳でブロードウェイ・ミュージカルの作曲家として名声を得ました。
1924年(25歳)に、アメリカ最初のジャズ王、ポール・ホワイトマンが主宰した「新しい音楽の試み/アメリカ音楽とは何か」という音楽祭で最後に演奏されたジョージの「ラプソディ・イン・ブルー」は、ジャズとクラシックを融合させた斬新なもので、大きな反響をよび世界的にも評価されました。 彼はこの曲を約2週間で書きあげたそうですが、曲のイメージが浮かんだときの気持ちを彼自身は次のように語っています。
『ピアノの鍵盤に触れたとたん、指先からメロディーが流れ落ちてきた』
『私にはこの音楽がアメリカの万華鏡のように聴こえる。我らが巨大な人種のるつぼの、我らがブルースの、我らが都会的狂騒の音楽的万華鏡として。』
このときの初演時の客席にはストラヴィンスキー、ラフマニノフ、スーザなどがいたそうです。
その後この曲はラヴェルなど欧州の作曲家にも大きな影響を与えました。この曲にクラシック音楽もジャズの要素を取り入れるようになり、この曲はアメリカを象徴する音楽となりました。
この頃から兄のアイラが作詞を手掛けるようになり、以降ガーシュイン兄弟はたくさんのヒット作を生み出しました。
ちなみに、ジョージは1925年7月20日号の「タイム」誌でアメリカ人作曲家として初めて表紙を飾りました。![]()
「ラプソディ・イン・ブルー」は大成功したものの、彼自身は自分が音楽学校に通ったことがないため作曲法や管弦楽法の不備を痛感し、あらためて独学でオーケストレーションを学びました。
そうして作られた作品のひとつが1928年(30歳)に発表された「パリのアメリカ人」です。この曲は彼がヨーロッパへの渡航から帰国して完成されました。
この年にラヴェル(当時53歳)が初めてアメリカを訪問、作曲の勉強のためにラヴェルに弟子入りを申し出たガーシュインに、ラヴェルは「あなたはすでに一流のガーシュインなのだから、二流のラヴェルになる必要などない」と言ったという有名なエピソードがあります。またラヴェルは「ヨーロッパの模倣ではなく、民族主義スタイルの音楽としてのジャズとブルースを意識した作品を作るべきだ」とも教えたそうです。
さらにそのときラヴェルはナディア・ブーランジェ(←ヒナステラのときの記事でも登場しました
)への紹介状も書いてくれましたが、彼女は「ガーシュインには生まれながらの音楽的才能があり、その邪魔をしたくない」と弟子入りを断ったそうです。
ニューヨークで催されたラヴェルの53歳の誕生パーティーで。
ピアノの前がラヴェルで右端がガーシュイン
その後も数々の作品を書きますが、1935年(37歳)に2年の歳月をかけて書いた大作オペラ(ガーシュインによると”フォーク・オペラ”)「ポーギーとベス」がブロードウェイで初演されました。オール黒人キャストという意欲的な企画作品でした。初演時は反響が芳しくありませんでしたが、その後評価が高まり、有名なアリア「サマータイム」は今でも広く歌われています。
1937年2月頃から体調に変化が起き、次第に頭痛や吐き気、意識障害発作の回数が増え、7月9日には脳腫瘍のため昏睡状態となりました。翌7月10日に開頭手術が行われ、腫瘍の摘出術が施行されましたが術後もガーシュインの意識は戻らず、翌7月11日にビバリーヒルズで亡くなりました。享年38歳でした。
ニューヨークでの葬儀には4000人もの人が集まり、ハリウッドでも追悼式が行われたそうです。彼はニューヨークのウェストチェスター・ヒルズ墓地に眠っています。
ジョージ・ガーシュインの霊廟
(ニューヨーク ウェストチェスター・ヒルズ墓地)
ガーシュインは、500曲もの歌曲、50曲のミュージカル、10曲のピアノ作品、7曲の管弦楽曲、4曲の映画音楽、2曲のオペラと室内楽曲を残しました。
「やりたいことが多すぎる」、「失敗している暇はない」などと語っていたそうですが、まさに38年という短い生涯で大量の名曲を次々と生み出しました。
彼の功績は、クラシックにジャズの要素を加えたというよりも、ジャズそのものを芸術的な水準にまで高めたことです。アメリカのジャズの手法と管弦楽を巧みに融合させてその後の近代音楽に大きな足跡を残しました。
ガーシュインの死後、1945年に彼の伝記映画「アメリカ交響楽」(Rhapsody in Blue) が製作されました。全編にわたってガーシュイン・ナンバーが流れ、「スワニー」を歌ってガーシュインがブレイクするきっかけを作ったアル・ジョンソンや、「ラプソディ・イン・ブルー」の作曲を依頼したジャズ王 ポール・ホワイトマンなどガーシュインの近しい人々が多数実名で出演しているそうです。
(ちなみにこの映画は、第2次世界大戦後に日本で初めて劇場公開されたアメリカ映画だそう)
映画「アメリカ交響楽」(原題「Rhapsody in Blue」) 予告編 (2分17秒)
それでは今日の曲です。「パリのアメリカ人」です。
前述したように、この曲はガーシュインがヨーロッパ渡航から帰国して発表されました。彼自身「自分が今まで試みてきた中で最も現代的な音楽」と語ったこの曲はニューヨークでの初演時(1928年12月)から大喝采を浴びました。
ガーシュインはこのヨーロッパ渡航ではロンドン、パリ、ベルリン、ウィーンなどに滞在、ラヴェル、プーランク、ミヨー、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、レハール、ベルク、ピアニストのホロヴィッツなどと会い、アドバイスを受けたり自作を聴いてもらったりしたそうです。
ジョージ・ガーシュイン:「パリのアメリカ人 (An American in Paris)」 (19分22秒)
/ ドゥダメル&ロス・フィル (2011年9月27日)
指揮者のドゥダメルが一番楽しそうに見えます![]()
ガーシュイン自身が弾いた「3つの前奏曲」も載せておきます。
ジョージ・ガーシュイン:「3つの前奏曲」 (5分12秒:第2曲;1分26秒~、第3曲;4分2秒~)
/ ジョージ・ガーシュイン(Pf) (1928年6月8日 ロンドン)
あぁ、これも聴いたことある~![]()
『 ガーシュインこそ唯一、真のアメリカ音楽だ 』 (トスカニーニ)




