ドラムセットの前に座るとそんな中学校時代の思い出が甦って来た。楽しかったなあの頃は。何の責任も不安もなく、ただ、毎日友人たちとくだらないことではしゃいでいた。
就職して社会に出れば人間関係の煩わしさに仕事に関するプレッシャー、家に帰れば妻の悩みや愚痴が待っている。休日になっても家事や育児の手伝いで気が休まる暇さえない時期もあった。生きているだけでストレスが多い。
こうやって、ドラムを前にすると何もかも忘れて没頭できそうな気がする。段々、やってみようかという気になってきた。ただ、如何せん、ジャズ・ドラムはどんな風に叩いたらよいのか皆目見当がつかない。ドラムそのものさえ、初めてと同様なレベルである。それに加えて、そもそも、ジャズって真剣に聴いたことがないのである。
「いきなり叩いてみろと言われてもわからないですよ。とりあえず、二人で何か聴かせてくださいよ」
まずは、二人の腕前を見ることにした。二人ともそれぞれマンツーマンの個人レッスンを受けているとのことだったのでどの程度できるのだろうかと密かな期待も持っていた。
「小塚君、何が吹ける?」
小塚に対して妙に馴れ馴れしい態度に小谷野は釈然としない。同じ教え子なのだから同じように接するのは当たり前であると思う一方で、卒業後は自分の方がずっと懇意にしてきたはずではないかという思いもある。小谷野の胸中はなんとなく穏やかではない。
「今、Fly Me To The Moonを練習してるんですよ」
小塚は、マウス・ピースに舐めて湿らせたリードをはめるとリガチャーのネジを締める。
「ああ、いいね。じゃ、ちょっとやってみようか。確か、あったと思うんだけどなあ」
細井は譜面をめくり始めるとすぐにあったあったと譜面台に置いた。譜面台も小谷野が持っているような華奢なものとは違う。
この曲は聴いたことがあるな。ただ、最初の8小節くらいしか聴き覚えがない。その先がどんなメロディだったか?小谷野は興味津々だ。
「じゃ、頭からやってみようか」
「了解」
小塚が偉そうに返事をする。
二人の演奏が始まった。
やっぱりあの曲だったな。ドラム用のスローン(スツール)に座ったまま小谷野は二人の演奏ぶりを探るように見ていた。
ブン、ブン、ブンと細井のウッド・ベースが単調なリズムを刻む。指の動きはまだおぼつかないように見える。
小塚のアルト・サックスはメロディをなぞっているようにしか聴こえない。間の抜けたような音色だし、時々音がひっくり返っている。ああ、こんなものかと笑いたくなったがさすがに笑ったら悪いなと必死でこらえた。二人の演奏を聴いた小谷野は少し安心したが、それ以上にがっかりもした。
ただ、自分はまだドラムに触ってもいない。所詮、ど素人であり、それを思えばまずまずと言ってもいいのかもしれない。
「なかなかですね」
2コーラスの演奏が終わると、小谷野は自分でも歯の浮きそうな言葉が口から出てきた。
「まあまあでしょ?まだまだ伸び代はあるからね」
細井も小塚も満更ではなさそうな顔つきであるが、伸び代があるなんて、ものはいいようだなと半ば感心する。
小谷野が次の言葉を探していると、ベースのネックを拭いていた細井がとんでもないことを言い出した。
「とりあえず、暮れのVIVANT感謝の集いで演奏するのが目標だから・・」
VIVANTとは、細井が経営するカフェである。そこでは、毎年、「感謝の集い」という名の忘年会が行われていた。会費制ではあるが日頃のご愛顧にとご近所や常連客に声をかけているのである。その日は、かくし芸を披露する場でもあり、それぞれが楽器を持ち寄っては、歌あり、踊りありの大宴会が開催されるのである。三味線や尺八まで演奏する人もいて盛り上がっていたのを小谷野も昨年体感していた。
そこに今年は我々も演奏で参加するというのである。あまりにも無謀だと小谷野は驚いた。聞いてないよというやつである。
「え?感謝の集いに出るって、半年しかないですよ。無茶ですよ」
「大丈夫だよ。みんな素人なんだから」と細井は笑う。
「とりあえず、今年は1曲だけだから何とかなるよ」
小塚におまえはどうなのという眼をやったが彼は平然としている。
「小塚は知ってたの?」
「そのつもりだよ」と改めてマウス・ピースを咥える。その腕前でかよと小谷野は突っ込みたかったが、自分はまだ何もできないのでそのまま飲みこんだ。
本気なのかと半ばあきれたが既にやる気になっている二人を見ていたら断りづらくなってきた。この面子でバンド、しかも自分がドラムをやるのかと改めて考えてみる。
若い頃、サックスに憧れていた時期があった。 ジョン・コルトレーンの輸入盤を何枚か買って聴いていたがその良さが実際にはよくわからなかった。ただ、サックスを咥えた黒人の姿がかっこよく思え、レコード屋でもらったポスターをパネルにして部屋に飾っていた。できることならサックスをやりたかった。しかも、アルトではなくテナーを。あのテナーの音色がとても好きだった。でも、サックスは小塚がやると決まっている。
自分はドラムをやるしかないが、ドラムも悪くないかと思い始めていた。ただ、自分を棚に上げておいて、この二人と演奏するのが不安でたまらなかったのである。
ффффф ффффф ффффф
さて、本日取り上げるアルバムは、JOHN COLTRANEの『Coltrane's Sound 邦題:夜は千の目を持つ』(1964年)である。
収録曲を見ると「The Night Has a Thousand Eyes」や「Body and Soul」があるのでスタンダード集かと思えば、その他はコルトレーンのオリジナル曲である。
コルトレーンのテナーの音色は硬質なイメージがあるが、ここでは円熟味を増していくらか丸みを帯びた印象がある。
このアルバムは、1960年に自身のレギュラーカルテットを結成した際、いわゆるマラソン・セッションにより一度に多数のトラックを吹き込んだもの一部であるとのことらしい。
「The Night Has a Thousand Eyes」(「夜は千の目を持つ」)は、スタンダード曲で同名の映画のテーマ曲である。
当時のジャズ・スタンダードは、映画のテーマ曲やミュージカルの一曲を取り上げたものが少なくないらしく、有名な「My Favorite Things」もミュージカルの小曲をコルトレーンが取り上げたのが最初だったと記憶している。(間違っていたらすみません)
私の好きな曲の一つ「Body and Soul」は少し早目のテンポで、これはこれで面白い。
オリジナル曲「Central Park West」はメロディアスなバラード、「Equinox」は深みのあるブルース。
難しいことはよくわからないが、コルトレーンのテナーをブイブイ言わせている好盤である。
ちなみに演奏メンバーは、コルトレーンのほか、マッコイ・タイナー (p)、スティーヴ・デイヴィス (b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)
その後、カルテットとしてのベースはジミー・ギャリソンに替わっていく。
John Coltrane Quartet - The Night Has A Thousand Eyes - YouTube
