「小谷野君、ドラムやってみない?」
突然、言い出したのは小谷野庸介の中学校時代の恩師、細井弘だった。今では、中学の教員は退職して、私立大学の臨時講師をしながらカフェを経営している。
カフェをオープンしたと聞いてから、小谷野は足繁く通っていた。小谷野は、細井が教職についた最初の教え子の一人であった。中学校を卒業してからもしばらく交流は続いていて、同じ市内にある自宅にも定期的に遊びに行っていた。
時には、一緒にキャンプに行ったり、テニスをしたり、小谷野にとっては良き兄貴であり友人のような存在でもあった。
小谷野が社会人になり、やがて結婚すると疎遠になっていったが、細井がカフェを始めてからはまた交流が再開したのであった。交流と言っても、小谷野がカフェに客として訪れ、店が暇なときには話し相手になってくれ、よく仕事や妻に対する愚痴を聞いてくれていたのである。
小谷野も今では会社の管理職になっていて、細井はひとりの大人として接触してくれてはいるが、小谷野にとってはいつまでたっても教師対生徒という関係から抜け切れず、合うたびに中学校の教室にいる気分になるのであった。
公道から少し入ったところの雑木林の中に建てられた店は、うっかりすると通り過ぎてしまうような場所であるが、それだけに静かであって、コナラやクヌギなどの広葉樹で包まれた環境は、一見、軽井沢を思わせるような雰囲気を漂わせている。内装も無垢の木材をふんだんに使用したウッディな造りで、特に若いカップルや熟年の女性たちに人気であった。
天井近くの壁に設置されたBOSEのスピーカーからは、いつもJAZZが流れている。小谷野は、若い頃にごくわずかな期間JAZZを聴いていた時期はあるがあまり詳しくない。それでも、このようなカフェのBGMにはいい雰囲気を醸し出して最適だなと感じていた。
「え?ドラムですか?」
飲もうとして口につけたコーヒーカップを思わず離した。
「なんでまた急に・・」
唐突な声かけに小谷野は半笑の表情をみせる。
「小塚君って、いたろう?同級生の。彼がね、この前店に来てくれたんだけど、サックス始めたんだって。だから、あとドラムがいれば一応なんとかバンドが組めるかなと思ってさ」
細井は、カウンターの中で小まめにカップを拭いている。
「え?小塚ですか?あいつがサックス吹くんですか?」
小塚明弘は中学校時代の同級生で、3年の時には小谷野と同じクラスだった。
「へえ・・。あいつがサックスをね」
俄かには信じられないし、イメージも湧かなかった。小塚とは、中学校を卒業してからはほとんど会っていない。大学生の時に偶然電車であったことがあって互いの近況を報告した程度だった。小谷野とは違って、一流大学に通っていることを鼻にかけている感じだったが、それ以来会っていない。
「楽器とか何かやると面白いと思うよ」
確かにそうだなと思わなくもない。子育てや仕事の忙しさにかまけて、趣味らしい趣味を持たずにこれまで生きてきた。時間が空けば、音楽を聴くか本を読む程度であった。
あと10年もすれば定年を迎える。その時に何か特別な趣味を持っていた方がいいのだろうなとは漠然と思っていた。
「バンドって、先生は何やるの?」
「俺はね。ベースよ」
細井が少し照れながら言う。
「今、講師に来てもらって習っているのよ」と舌を出す。
「え?講師が来てくれているんですか?じゃ、レッスン料高いんじゃないですか?さすが、金持ってますね」
小谷野は、笑いながらカップを口に運ぶ。
「金なんかないよ」
細井は、持っていた布巾を横に振りながら笑う。
午後4時を過ぎると、客足も途絶えがちになる。この時間を狙って来れば、こうやって恩師と談笑できる機会もある。今日も貸切状態だった。
「へえ。ベースってエレキですか?」
「いや、まあ、エレキもやるけど、主にウッドベースよ」
これもイメージがわかない。確かに細井は好奇心旺盛で、いろいろなことに手を出すと巷のうわさで聞いていた。小谷野の知らないところでは、海外の山々へ良く登って生物や気候の研究をしたり、いくつかの市町村の審議会や街づくりの構想に携わったりしてきたとのことである。これらは仕事がらみとしても、趣味では俳句に挑戦して何かの賞に入選したり、テニスや陶芸をしたりしながら若い女子らと戯れているような話も耳にしていた。
小谷野は見損なったがテレビに出演したこともあるらしい。教育分野においても偉い「先生」であるのだ。
小谷野と交流していた時期からは想像もつかない八面六臂な活躍ぶりで充実した人生を送っているなと感じていたし、それを羨ましくも思っていた。
翻って自分を見れば、他人を羨むばかりで自分から何かを切り開いていこうという気概もない。そんな自分を今になって情けないと思うこともある。
「まったく、いろんなことやりますね」
小谷野は本心で褒めたつもりだった。
「まあね、生きているうちにやりたいことやった方がいいよ」
「そりゃ、そうですけどね。この歳からドラム始めてもねえ・・」
小谷野は、飲みかけた珈琲を思い出したように口に含む。深入りの珈琲は若干苦いがコクや深みもあってたまに飲みたくなるとこの店を訪れるのだった。
「何かを始めるのに年齢は関係ないと思うよ。こう言っちゃなんだけど、小谷野君より俺の方が10歳年取ってるんだからね」
細井は、自嘲気味に笑った。
「確かに年上ですけどね」
小谷野も笑う。
「俺って、先生みたいにアグレッシブじゃないし、根がネガティブなんで・・」
根がネガティブ?駄洒落たつもりはなかったが結果的にオヤジギャグになってしまう。
「ええ?そうかな?中学校時代は、リーダー・シップがあっていろんなことに取り組んでいたじゃない。ネガティブな印象はないけどね。そもそもネガティブじゃ管理職なんてなれないでしょ?」
カウンターの裏にあるシンクでカップを拭き終るとコーヒーミルを回し始めた。ガーという音とともに珈琲のいい香りが漂ってくる。
「それはあまり関係ないと思うけど・・ま、大人になるといろいろとありますからね」
「まあ、そうだけどね。お替りどう?」
小谷野が勧めるまま、2杯目の珈琲をいただく。1杯目より、軽い。ほどよくスッキリとした酸味とフルーティーな味わいである。
「これは何ですか?」
「コスタリカかな」
最近、珈琲を自分で挽いていれるようになったから何かと気になるのであった。いつも使っていたコーヒー・メーカーが壊れてしまって、買い替えようかと思いつつ先延ばしにしていた。
ならば、自分でドリップしてみよう。せっかくなら豆から挽いていれてみようか。豆は何が美味しいのかなと目下いろいろと試飲中であった。
「ところで、バンド組んでどんなものをやるんですか?」
「お?やる気になってきたかい? ジャズだよ、ジャズ。ジャズをやるのさ」
「ジャズですか?ジャズはあまり知らないしなあ、俺にできるかなあ。ま、とりあえず考えておきますよ」
「そんなこと言わずにやろうぜえ。楽しいよ」
「ジャズかあ・・・」
小谷野は、内心、ジャズ・ドラムも悪くないなと思いながら、自分がカッコよく叩いているところを想像していた。
「それに、ドラムやるとしても俺ドラム持ってないし、買える余裕はないですよ」
急に現実に戻って思いついた言い訳を言う。
「ドラムならうちにあるんだ。ちょっと、古いけど・・・」
「え?ドラムも持ってるんですか?何でもあるんですね」
細井は、へへと上目使いで笑う。
「今、俺のこと、道楽者と思ったでしょ?」
「いえ、そんなことは思いました」
小谷野は、細井にはなぜか思ったことが言えてしまう。リスペクトはしているが歯に衣着せず言えてしまうのは、中学校時代から変わらない。
「ま、とりあえず、考えておきます」
小谷野は、軽はずみな即決は避け、曖昧な返答をしたが断る理由も思いつかないでいた。
「やるかやらないかは別にして、来週うちに来てよ。小塚君も呼んであるから」
気が早いなと思ったがその日の予定は入ってない。とりあえず行ってみるか。小谷野は、カップに残っていた珈琲を一気に飲み干した。
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さて、またまた見切り発車してしまった雑文シリーズ。
その第1話のB面で取り上げるのは、THE DON FRIEDMAN VIP TRIOの『TIMELESS』(2003年)である。
ジャズのアルバムは、これまでもあまり取り上げていないのはレヴューが書けないから(笑)。だからと言って、ほかのレヴューが書けているかというと大したことは書けていないのが現実である。
それはともかくとして、このドン・フリードマンというアメリカのピアニストは、リーダー・アルバムをかなりリリースしていて、その他にも多くのミュージシャンと共演しているがほとんど聴いたことがなかった。
このアルバムは、実を言うと他のメンバーに興味があって調達したものである。
ベースがジョン・パティトゥッチ(舌噛みそう)、ドラムがオマー・ハキムである。このメンバーは、先にハンク・ジョーズのグレート・ジャズ・トリオで聴いていて、オマー・ハキムのドラムに魅了されてしまったのである。
オマー・ハキムって、あまりジャズでは馴染みがなかったけれど、とにかく手数が多くてドライブ感が半端なくて好きになっていたのである。
ジョン・パティトゥッチ(また、舌噛みそう)も超絶ベーシストで飽きないから、結局、このアルバムも好きになった。
※フルアルバムがありました。
The Don Friedman VIP Trio – Timeless (Jazz, Post Bop) 2004 - YouTube
