大きな揺れを感じたのは、1号館の地下にある学食にいたときだった。

 午後の授業が休校になったため、斎木優斗は昼食後もいつもの面子としばらく駄弁っていたのだ。

「やばいな!」

 優斗の対面に座っていた桑野勝がいつになく大きな声をあげると学食にいたまばらな学生たちは一斉に学食を出て行った。優斗も遅れまいと食器を返却口まで片づけないまま階段に向かって走った。1号館は、由緒ある建造物らしかったが、老朽化のため今年度いっぱいで取り壊しが決まっていて、大きな地震が来たら潰れるともっぱら学生の間で噂されていたからだ。

 外に出るとキャンパスは逃げ惑う学生たちで既に混乱していた。ふと、優斗は2学年下の同じサークルの後輩、田辺美華のことを思い出した。彼女はどうしているだろう。どこか北村杏子に雰囲気が似ていて気になっていたのである。優斗は、学食から一緒に飛び出して来た仲間とは意図的にはぐれて美華を探した。

 多くの学生がパニクっている中、どこにいるのかわからぬ人間を探すのは容易ではないが、スマホを使うのはなぜか躊躇った。ひょっとして、サークルの部屋のある3号館にいるかもしれない。優斗が、右往左往している学生たちを掻き分け、校舎に向かおうとしたときだった。

「先輩!」

 どこからか、自分を呼んでいると思われる声がした。聞き覚えのある声だ。優斗には、それが美華だとすぐにわかった。

 声の方を探すと多くの学生に交じって田辺美華が立っていた。数人の友人たちと一緒に駅に向かおうとしているようだった。

「美嘉、先に行くね」

 何かを察したように友人たちは美嘉を残して足早に立ち去った。

「大丈夫だった?」

「うん」

「とにかく、ここを出よう」

 優斗が美嘉を促すと

「ちょっと、待って・・・写真」

「え?」

「まだ、先輩と撮ったことなかったから・・」

「いいけど、今じゃなくても・・」

 優斗が途惑う間もなく、美華はスマホを自撮りモードにして優斗の傍に顔を寄せてきた。

「じゃ、俺も・・」

 今度は、優斗も自分のスマホを取り出して、自分たちに向けた。せっかくだから取り壊しの決まった1号館をバックにしようと考えた。右手でスマホをかざし、左手は自然と美華の肩に添えた。優斗は、この時とばかりに何度も何度もシャッターを押した。その間、優斗はスマホの画面に映る美華の顔をずっと見ていた。

「ええ、そんなに?」と美華が笑う。左手に力を込めて少し引き寄せると美華の頬が少し染まるのがわかった。

 こんなときに何をしているのかと不審げに見ている学生もいたがかまわない。周りの喧騒がうそのように二人のいる空間だけが静けさに包まれていた。

 ひょっとして美華とはもう会えないのではないか、優斗はなんとなくそんなことを思っていた。

 

 

 

 ぼんやりとした灯りが暗い天井に反射している。数年前、小樽で買ったステンドグラスのテーブルランプの灯りだ。

 結婚してからは、妻が真っ暗な部屋では眠れないからとテーブルランプを使うようになったが、今では優斗もその環境に慣れてしまって、同じように真っ暗な部屋では眠ることができなくなっていた。

 ここはどこだ?と思ったのは一瞬で、すぐにいつもの寝室であることが認識できた。隣では、妻の静かな寝息が聞こえている。

夢だったのか?

 久しぶりに覚めない夢だった。大方の夢は、夢を見ながら途中でそれが夢であることを意識できたし、夢から逃げて目を覚まそうとすればそれができるようになっていたのだ。今日は、それがなかった。

 そういえば、夜中に地震があったような気がしたが、夢の中の出来事だったのか実際に揺れていたのかはっきり思い出せない。それほど、深い眠りに陥っていたのだろうか。

 久しぶりに見た夢は詳細に覚えていた。

 ただ、田辺美華という女性の記憶がない。目覚めた瞬間、不思議と名前だけは憶えていたが顔が思い出せない。

 唐突な夢だったな。

 優斗は、枕元のスマホを手にした。暗がりにスマホの画面が眩しい。思わず目を細めて見ると、午前4時だ。まだ起きるには早い。寝返りを打ちながら、布団を頭までかぶってもう少し寝ようと思ったが、突然、何かに突き動かされるように優斗は再度スマホを手に取った。

 まさか・・・。

 そんなことあるわけないよなと思いながらライブラリを見た瞬間、鳥肌が立つのを覚えた。そこには優斗の学生の頃の写真があった。背景には大学の1号館が映っている。

 そして、優斗の隣には優斗に肩を抱かれた見知らぬ女子大生がいた。

 美華だ。

 間違いなく、夢に出てきた彼女、田辺美華だ。

 優斗の心臓はバクバクと脈打ち、全身に熱い血を送り出すのを感じていた。

 

 

 

 洗面所の鏡の前で専用のトリマーを使って髭を整える。切れた髭が洗面台にぱらぱらと落ちていく。

 髭を伸ばし始めたのは退職してからである。正確に言えば、髭が伸びてきたまま無精にしていただけのことである。現役時代は、毎朝、電気シェーバーを当てていたものだ。髭は濃い方ではないが、放っておけばさすがに伸びる。

 退職してから数か月した頃、優斗のためにかつての同僚や後輩が「卒業コンペ」を企画してくれたことがあった。

 かつて同じ部署で働いていた部下と久しぶりに顔を合わせた。すると、優斗の顔を見るや一瞬ぎょっとしたあと、すぐに笑いだした。

「誰かと思いましたよ」

「は?」

 それで髭が酷いことになっていることに優斗は初めて気がついたのだった。ただ、かつての部下に笑われたことが少し気に入らなかった。それでも、自分のために参加してくれたのだからとそこは平静を装って、一日、下手なゴルフを楽しんだ。

 部下に笑われたことで髭を剃ろうかと一旦は考えた優斗だったが、せっかくここまで伸びたのだからと専用のトリマーを買って形を整えることにしたのだった。

 ぼうっとした特徴のない顔には意外に髭が似合うものだなと優斗自身まんざらでもなかった。

 洗面器に落ちた髭をそのまま流すと排水口が詰まるからと妻が嫌がるためいつもはティッシュで掻き集めているが、今朝はそんな気にもならない。水をかけると排水口に勢いよく集まってくる髭をぼうっと眺めながら優斗は田辺美華のことを考えていたのだ。

 あれから、ずっと考えている。夢から覚めてもまだ夢の中にいるようで、それでいてどこか落ち着かない。一体、どうしたというんだ。何が起こっているんだ。スマホの中にあるあの写真を妻に知られたら説明のしようがない。いや、妻ではなくてもそうだろう。誰が信じてくれるというんだ。

 ため息をつきながら改めて鏡に映った自分の顔を見る。いつの間にか、皺やシミが増えている。

(老けたなあ)

 心の中でそうつぶやくと、また無意識にため息が出る。ため息の訳が老けたことではないことはわかっていた。

「どうしたの?朝からため息なんかついて」

 洗面所を除きこみながら妻が訊いてきた。

「いや、なんでもない。大分、老けたなと思ってさ」

「なによ、いまさら」と呆れ顔で妻が笑った。

「もうすぐ、支度ができるから・・」

 そう言った後、妻はキッチンに戻った。

「ああ、そうそう。昨日、あなたが休んでいた時に義兄さんがお孫さんを連れて来たよ。大学受かったんだって、大きくなったね。嬉しそうだったよ」

 今度は、朝食の支度をしながらキッチンから話しかけてきた。

「ああ、そう。起してくれてもよかったのに」

「風邪でも移しちゃったら大変でしょ?ちょうど、私のスマホ充電中だったので、あなたのスマホ借りて何枚か撮ったからね。後でラインで送って」

 え?俺のスマホいじったのか?

 優斗は、慌ててスマホを確認した。

 スマホの中には兄とその孫の写真が何枚かあったが、さっき見た田辺美華の写真がない。確かにあったはずだ。どういうことだ?

 寝ぼけて見間違えたのだろうか?それとも、まだ夢の中だったのか?それとも、風邪のせいでもあったのか?いや、そんなはずはない。

 優斗は、何がなんだかわからず混乱した。

「パン焼けたよ」

 妻の声とともにキッチンからパンの香ばしい甘い匂いが漂ってきた。最近、パン作りにはまっていて、そのせいかパン食が増えた。妻が趣味を持つことを優斗は歓迎していたのだから、それはそれでいい。

「ああ、今行くよ」

 優斗は、しっくりしないままスマホをデスクの上に置いてダイニングに入って行った。

 置き去りにされたスマホの画面には優斗と美華の写真が映し出されていた。

 

                 完

 

 

 

 

※長い間、拙い作文にお付き合いくださり、ありがとうございました。

 

 

 

 

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 さて、本日取り上げるアルバムは、杏里の「APRICOT JAM」(1978年)である。

 



 杏里を取り上げるのは初めてで、ならばとデヴュー・アルバムを持ってきた。

 これは、レコードで所持している。

 

 海外録音で、あちらのミュージシャンがバックを務めている。今、改めて聴いてみると17歳の初々しさが感じられてそれはそれで貴重かな(笑)

 

 まだ、曲を自ら作るということではなく(1ッ曲を除く)、「オリビアを聴きながら」の尾崎亜美や、丸山圭子、福島邦子などの曲を提供かカヴァーかわからないが歌っている。

 まだどんなシンガーにするのか方向が定まっていない時期で、アイドル風な曲も歌っているところも思しろいかも、というかアイドル路線かな。

 

 久しぶりに聴いたけど、うん、悪くないね。

 

【期間限定】杏里 ANRI / オリビアを聴きながら Listening to Olivia(Live at Pacifico Yokohama)[Official Video] - YouTube

※名曲故にいろんなバージョンがあります。寺井尚子さんのヴァイオリンもいいですね。