何もしない、という選択



「何もしないって、本当に『何もしていない』わけじゃないんだなぁ。」

昨日、そんな言葉が心に残りました。



何もしない。



そう聞くと、
止まっているような、
何もできていないような、
そんな感じがするかもしれません。



でも、本当にそうなのかな、と思ったのです。



たとえば、



心配だけれど、すぐには連絡しない。

何か言いたいけれど、今は言わずにいる。

手を出したくなるけれど、見守る。

答えがほしくても、すぐには探しにいかない。

疲れているから、今日は休む。

外から見れば、
どれも「何もしていない」ように見えるかもしれません。



でも、その前にはちゃんと、

感じて、
考えて、



そして「今は何もしない」と選んでいる自分がいます。



むしろ、何かをするほうが楽なこともあります。



心配だから連絡する。
不安だから調べる。
何か言わなくちゃと、言葉を探す。
役に立ちたくて、手を出す。



動けば、
「私はちゃんとやっている」と思えるから。



何もしないでいることのほうが、
落ち着かないことだってあります。



でも、

何もしないこと」と
何も考えずに放っておくこと」は、
同じではないんですよね。



今の自分を感じて、

私はどうしたいんだろう。

今、本当に必要なのは何だろう。

そう自分に聞いた先に、

「今は何もしない」

があるのなら、

それも、自分で選んだひとつの行動なのだと思います。



待つことも。

見守ることも。

休むことも。

すぐに答えを出さないことも。



何もしないように見える時間の中で、
心はちゃんと動いている。



そして、ときには、
自分が動かないことで、
相手が自分の力で動くための余白が生まれることもある。



何もしないって、
本当に「何もしていない」わけじゃないんだなぁ。



動くことだけが、
生きることではないのかもしれません。



自分を感じて、
動くことを選ぶ。



そして、ときには、
動かないことを選ぶ。



どちらを選ぶときにも、

「私は、今、どうしたい?」

そこに自分がちゃんといること。



それが、
自分を置いていかない、ということなのかもしれません。

 

 

 

志栄

 

 

 

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生きることは、自分を感じること

 

 

 

生きているものも、
物も、
いつかは朽ちていきます。



ずっと同じ形のまま、
そこに在り続けるものはありません。



では、「生きている」って、
どういうことなんだろう。



そんなことを、思います。



生きている私たちは、
自分で動くことができます。



そして、
感じることができます。



今、私はどう感じているのか。



心地いいのか。
苦しいのか。
疲れているのか。
嬉しいのか。



何かを変えたいのか。
それとも、今は動きたくないのか。



今の自分を感じるからこそ、
「私はどうしたいのか」が
少しずつ分かってくるのだと思います。



そして、
そのために今できることをする。

また感じる。

また考える。

そして、また動く。



生きるって、
この繰り返しなのかもしれません。



もちろん、
何でも自分ひとりでやるということではありません。



誰かに頼ることもあります。

「助けて」と言うこともあります。



それだって、

自分が感じ、
自分が考え、
「この人に頼ろう」と決めて動いたのなら、

自分の人生を生きるための、
ひとつの行動なのだと思います。



反対に、

「あの人が言ったから」
「先生が言ったから」
「みんながそうしているから」

それだけで動いていると、

自分の人生なのに、
そこから自分が少しずつ抜け落ちてしまうことがあるのかもしれません。



大切なのは、
全部を自分で決めることではなくて、

その途中に、

「私は、どう感じている?」

と、自分がちゃんといること。



昨日、私はブログを書けませんでした。



今日も、

もういいか。
らせん階段の途中にでも座っていよう。

そんなことを思っていました。



でも今朝、
こんなことをふと思いました。



そして、
書いてみたいと思いました。



昨日は、書かなかった。



今日は、書きたくなったから書いた。



それもまた、

今の自分を感じて、
今できることをする、

ということなのかもしれません。



生きることは、
ものすごい何かを成し遂げることではなく、



今の自分を感じながら、

ひとつ選び、
ひとつ動き、

また自分に戻ってくること。



そんな小さな繰り返しなのかもしれません。



私は、私を置いていかない。

この言葉は、

「自分を大切にする」ということだけではなく、

「自分の人生を生きる」

ということでもあるのかもしれない、なんて

思います。

 

 

 

志栄

 

 

 

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これは今、私が見ている景色

 

 

先日、「想うことと、背負うことは違う」という記事を書きました。 

 

 

母に対して感じていたことを書いたものです。 

 

 

そして昨日、

ある方と母のことを話す機会がありました。 

 

母がこの2年ほどで変わってきたこと。 

身体のこと。 暮らしのこと。 

先日の豪雨の日には、82歳の母が雨の中を1時間ほど歩いて、自宅まで帰ってきたこと。 

 

 

そんなことを改めて振り返っていたら、 

「ああ、母はずいぶん変わったんだな」

思いました。 

 

 

先日の記事で見ていた母と、 

昨日、振り返りながら見ていた母。 

 

同じ母です。 

 

そして、

 

どちらを見ている私も、同じ私です。 

 

 

なんだか、これも陰陽☯だなぁと思いました。 

 

 

物事には、いろいろな面があります。 

 

 

そんなことは、

今さら言うまでもないことなのかもしれません。 

 

 

でも、「違う視点から見る」と考えると、

二つの面だけではないのかもしれないな、と

思います。 

 

 

見る場所が変われば、見えるものも変わる。 

 

 

そして、別の視点から見たときに見えてくるのは、
相手の別の一面だけではないのかもしれません。 

 

 

自分自身の、別の一面も見えてくる。 

 

腹が立つ自分。 

悲しい自分。 

許せない自分。 

心配する自分。 

嬉しい自分。 

大切に想っている自分。 

もう背負いたくない、と思っている自分。 

 

 

どれかが本当で、どれかが間違いなのではなく、
どれも、そのときの私です。 

 

 

とくに、

何かの出来事や誰かに対して否定的な氣持ちを持ったとき、
違う視点があることを知っておくことは、大切なのかもしれません。 

 

 

もちろん、

渦中にいるときは、そんなことを考える余裕なんてありません。 

 

 

許せないものは、許せない。 

腹が立つものは、腹が立つ。

悲しいものは、悲しい。 

 

 

それでいいのだと思います。 

 

 

無理に、
「でも、いいところもあるよね」
なんて思わなくてもいい。 

 

 

少し時間が経ってから。
少し落ち着いてから。 

 

あるいは、ひとつ深呼吸をしてから。 

 

ほんの少しだけ、見る場所を変えてみる。 

 

 

そうすると、 

「あのときの私は、ここから見ていたんだな」
と氣づくことがあるかもしれません。 

 

 

誰かや何かの別の面を探すというより、 

そう感じていた自分自身を見る。 

 

 

そう思うと、私が最近よく書いている

「らせん階段」というものは、
それをとても見やすく表しているような氣がします。 

 

 

階段を一段上る。
すると、それまでいた場所を、ほんの少し高いところから見ることができます。 

 

 

下にいたときには、目の前しか見えなかった。 

 

 

それが一段上ると、
「ああ、こんなところにいたんだ」
と分かる。 

 

 

だからといって、
下にいた自分が間違っていたわけではありません。 

 

 

その場所からは、それが見えていた。 

 

ただ、それだけ。 

 

 

上ると、少し広く見える。
そして不思議なことに、自分の中へは少し深くなる。 

 

 

上っているのに、深くなる。 

 

 

そして、
上るから、広く見える。 

 

 

らせん階段って、

やっぱり陰陽☯なのかもしれません。 

 

 

世の中には、許しがたいこともあります。 

どうしても許せない人や出来事だってあると思います。 

 

 

それを許せないことが、悪いわけではありません。 

 

無理に手放そうとしなくてもいい。 

 

 

でも、
「私は、まだこれを許せないんだな」と、

その氣持ちを持っている自分まで見えるところに

立つことができたら、 

 

それだけで、

 

ほんの少し軽くなることもあるのではないでしょうか。 

 

 

氣づかなければ、
今、自分が見ている景色が、世界のすべてになります。 

 

 

でも氣づけば、
「これは今、私が見ているひとつの景色なんだ」
と思える。 

 

 

景色を否定しなくていい。
でも、景色はそれだけではない。 

 

 

そして、
自分も、それだけではない。 

 

 

☯は、良い面と悪い面を探すことではなくて、

いろいろなものが同時に「在る」ということなのかもしれません。 

 

 

昨日まで見ていた景色も在る。 

 

 

今日、見えてきた景色も在る。 

 

 

どちらも抱えながら、
また、らせん階段を一段。 

 

 

氣がついたら、
前より少し広い景色を見ているのかもしれません。

 

 

 

志栄

 

 

 

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塩とつながる日

陰陽は、暮らしの中にある

 

 

 

今日は【塩とつながる日】です。

最近、このブログに「☯」がよく登場します。

陰陽。

「上っているのに、深くなる」

そんなことを書いたときにも、
ああ、これも陰陽だなぁと思いました。



反対に見えるものが、
実はひとつの中に在る。



陰陽五行説というと、
なんだか難しい東洋思想のお話のように聞こえるかもしれません。



でも、よくよく見てみると、
陰陽は私たちの暮らしの中に、ごく普通に在ります。



昼と夜。
太陽と月。
明るさと暗さ。
暑さと寒さ。
動くことと休むこと。
外へ向かうことと、内へ向かうこと。



どちらか一方だけでは、
暮らしは成り立ちません。



夜があるから朝が来るし、
動いたら休む。



暑い夏がずっと続くわけではなく、
季節は少しずつ秋へ向かっていきます。



陰と陽は、
どちらが良くて、どちらが悪いというものではありません。



陽が正解で、陰が不正解でもない。



どちらも在る。



そして、ずっと同じところに留まっているのではなく、
行ったり来たりしながら変化していく。



の形を見ると、
白の中には黒があり、
黒の中には白があります。



完全にどちらかだけ、ということではないんですよね。



そして五行では、
自然界のさまざまなものを

「木・火・土・金・水」

という五つの性質で捉えます。



季節や身体の働き、食べ物なども、
それぞれが関わり合いながら巡っていると考えます。



ここにも、
何かひとつだけを良くすればいい、という考え方ではなく、
全体のつながりがあります。



身体もそうなのだと思います。



元氣だから動ける日もあれば、
今日は休みたい、と感じる日もある。



身体が何かを訴えているとき、
「こんな自分ではダメ」と陽のほうへ無理やり戻そうとするのではなく、



今は、こちらなんだな。



そう受け取ることも、
ひとつの調整なのかもしれません。



そして、塩もまた、
昔から私たちの暮らしや身体と深く関わってきたものです。



塩は身体に必要なもの。



けれど、
多ければ多いほどいいわけでもなければ、
減らせば減らすほどいい、という単純なものでもない。



その人の身体、その日の状態、季節、食事。



いろいろなものとの関わりの中で、
自分にとってのちょうどいいところがあります。



以前、このブログで
「偏りではなく、重心」ということを書きました。



陰陽五行も、
もしかすると同じなのかもしれません。



真ん中から絶対に動かないことが「整う」ことではなくて、

揺れながら、
動きながら、
今の自分の重心を感じること。



暑ければ涼しくする。
疲れたら休む。
乾いていたら潤す。
足りなければ補う。



そんな、ごく普通にしていることの中にも、
陰陽の巡りがあります。



難しい言葉を知らなくても、
私たちはずっと自然と一緒に暮らしてきました。



そして私たちの身体も、
自然の一部です。



季節が巡るように、
身体も心も動いていく。



だから、

「今の私は、どちらに傾いているかな」

そんなふうに、
自分の身体や心を感じてみる。



正しいところへ戻すためではなく、
今の自分を置いていかないために。



それもまた、
暮らしの中の陰陽なのだと思います。



今日も、
自分の身体の声を感じながら。



自分にとっての「ちょうどいい」を、
見つけていけたらいいですね。


 

志栄

 

 

 

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ぐるぐるしたって、いいじゃない

 

 

 

 

正解を探すのではなく、

自分で選びながら生きること。
迷ったり、戻ったり、

また同じことをしている自分に氣づいたり。
その「ぐるぐる」も含めて、自分の人生

なのかもしれない。

 

 

 

😺

正解を探すより、
自分で選ぼう。

重くなったら、
また軽くすればいい。

 

 

 

 

正解を探して、
そこに向かっていくのは、
案外、楽なのかもしれません。

「こうすればいい」
「これが正しい」

それが分かっていれば、
そこへ向かって歩けばいいから。


でも、その正解ばかりを見ているうちに、
自分がいなくなってしまうことがあります。


自分がいなくなったことに氣づかなければ、
それはそれで、そのまま進んでいけるのかもしれません。


でもね。

一度、

「あれ?」

という違和感に氣づいてしまったら、
なかなか、そのままではいられない。


だって、重いから。


じゃあ軽くなろう、とすると、
今度はまた、

「軽くなるための正解」

を探し始めたりします。


……あぁ、また私やってんなぁ。


そんな自分に氣づいて、苦笑いする。

でも、それくらいでいいのかもしれません。


だって、これも私なんですよね。


ぐるぐるすることを
全部やめなくてもいい。


でも、
同じぐるぐるなら、

重いものをいっぱい抱えたまま
ぐるぐるするより、

いらないものを少しずつ降ろして、
軽くなりながら
ぐるぐるする方がいい。


そうしているうちに、
その「ぐるぐる」の形だって、
少しずつ変わっていくのかもしれません。


それが、
人生を楽しむということなのかなぁ、
なんて思います。


在るものは在る。
無いものは無い。


そして、
在るものの中から何を拾うのかは、
自分で決めていい。

拾わなくてもいい。

途中で、

「やっぱり、いらない」

と捨ててもいい。

いくつも拾いたかったら、
いくつも拾えばいい。


そして、

「重っ!」

と氣づいたら(笑)

また降ろせばいい。


何を拾うか。
何を持っていくか。
何を途中で降ろすか。

そのたびに、
自分で選び直せばいいんですよね。


とはいえ。


1人で迷ったり、
1人でぐるぐるしたりするより、

誰かがそばにいた方がいいときもあります。

答えを教えてもらうためではなくて、

自分の中にあるものを
一緒に眺めてもらうために。


そんなときは、

私はここにおりますので、
よかったらお声かけくださいね。

でも、有料です。

(笑)


今週も、
猫さんと一緒に、
自分の重さを確かめながら。


重かったら、
ちょっと降ろして。


また歩いてまいりましょう🐈‍⬛

 

 

 

志栄

 

 

 

 

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