金曜日ですね…日にちの感覚がずれてる( ̄▽ ̄;)
11日に間に合わせようと、思い出せる限りを綴ってみましたが、かなり長くなりました。それでも当日、私が体験した事を書き並べただけで、後日分かったこともいっぱいありました。
ここからは、後日談です(-_-;)
まず、自宅に戻って感じたことは、私が職場で経験した落下物や家具のズレ等を全く感じなかったこと。
自宅はマンションで10F、東京23区の端っこなのですが、殆んど地震の影響を受けていないようでした。たまたまその日、我が家に来ていた父は、私が無事に家に戻って来た時、客間で静かに眠っていました。寝室のタンスの上にに置いてあった小型の液晶テレビも落下せず、鎮座。都心部だけが凄かったのだろうか?と思うほどでした。
起きてきた父に確認したところ、被害は、皿が数枚食器棚から落ちて割れただけでした。ちょっと悔しかったのが、割れたのが気に入りの皿で、シールで集めたお皿はヒビ1つ入らず無事。友人達に聞いたところ、高価なお皿ばかり割れたと悔しがっていました。そういうものなんでしょうか?
80歳を過ぎた父親は、地震の時に近くのスーパーマーケットで買い物をして、食材を袋に詰めている最中だったとか。
今まで感じたことの無い大きな揺れだったが、スーパーの製品が棚から落ちた様子もなく、他の客も店員も騒ぎにはならなかったそうです。1階だったので2階以上は分からなかったようですが。ただ、困ったのはマンションのエレベーターが止まっていたこと。80を過ぎた身体で荷物を持って10階迄階段を上がるのはキツい、動くのを待つか…と非常階段の下で座り込んでいたら「何階ですか?私は8階なので荷物だけですが持って行きますね」そう言って中年のご婦人が父の返事も待たず、荷物を持って階段を上がって行ってしまったとか。父も休み休み、一時間かけて10階迄上がったそうですが、8階の踊り場に父の荷物が置いてあったのを見て感激したと。
でも8階のどなたかも分からず(10軒以上のお宅に確認に回るのもためらわれたので…)、未だにお礼ができていません。
この場をお借りして、本当にありがとうございました!
連れ合いが不在の間、父には此処に居て貰いましたが、実家に戻ったら蛍光灯が1つ落ちて割れていました。それ以外は不思議と無事でした。
本社から川崎の事業所に電話を掛けて繋がらなかったのは、川崎市内の一部が停電だったからでした。
川崎の事業所は生産工場なので建物も低く、高くてもせいぜい四階建て、殆んどが天井高の平屋か二階建ての一棟が広い建物ばかりなので揺れの恐怖は殆んど無かったそうです。
ただ、停電のために窓の無い建物は真っ暗で、工場の生産ラインもストップ、電話も繋がらない状態でした。真っ暗な建物の中で館内放送もなく、私とは違う不安な状態で皆席に着いているのも辛かったと思います。
防災担当が各部で任命されているので、非常時はその人達が情報収集係りです。唯一の頼みの綱ですが、やはりこんな大きな災害は過去に無いため、本部でも右往左往していたようです。最終的には何処の指示かも分からなかったようですが、社員は全員、屋外に出され待機。歩いて帰宅可能な者は帰宅、無理な人達は自家発電が可能な建物に集まり、そこで過ごす事になり、夜は炊き出しが行われたそうです。
歩いて帰った後輩の子に聞いた所、1人暮らしのマンションで、中は無事でも真っ暗で全てが電気を使うものばかり、唯一ガスコンロだけが動いたけど水道も出ない(水もモーターで貯水タンクから引くので断水じゃなくても出ないんですよね)、買い置きしていたお茶のペットボトルを鍋にあけて、お菓子で夕飯を済ませたそうです。防寒もベッドに潜り込むしか手が無く、それでも疲れていたからかいつの間にか眠っていたと言っていました。朝には昼前には停電も復旧したようですが、やはり停電と断水は一番堪えるようです。
津波という恐ろしい被害は無かったものの、あの3月11日は多くの人に恐怖と不安を与えました。
この先、30年以内に必ず起きると言われている東京直下型地震。自分が生きている間に来ないかもしれないし、数ヶ月後には来るかもしれない。でもあの日を経験した人には何らかの糧も与えたと思いたいですね。