「覚醒」の体験 〔P・D・ウスペンスキー〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

「人間は『時間』に閉じ込められている」  

 

 “‥‥‥「神秘的な」状態においては、ウスペンスキーは「客観的なもの」と「主観的なもの」という区別が意味をもたないことを知った。

 

 ここにおいて私は客観的なものと主観的なものが入れ代わることに気づいた。一方が他方になるのである。このことを口で表現するのはきわめて難しい。主観的なものに対する通常の不信感は消える。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆるイメージはただちに客観化されて、客観的現象の形態と寸分違わない現実的で本物の形式をとる。それと同時に客観的現象もどうしてか消え、すべての現実味を失い、全く主観的な架空のもの、こしらえあげられたものとなり、真の存在感をもたなくなる。

 

 ウスペンスキーはこういう世界を「非常に複雑な数学的関係をもった世界」になぞらえている。

 

 ‥‥‥これは、すべてが結び合わさっており、どんなものもそれだけでは存在せず、と同時に、事物そのもののほかに事物相互の関係が真の存在をもつというか、ことによると「事物」は存在せずに「関係」のみが存在する世界である。”(P67~P68)

 

 “事実上ウスペンスキーは、意識がますます速く流れるように見える強烈な興奮状態にあったのだ。通常は意識は氷河と同じくらいゆっくりした重い流れであるが、神秘的な状態においては氷は溶け、川のような流れになる。

 このことは、一つの言葉を言うたびに追いつくことのできないほどの多くの観念が生じるので文章を完成させることができなかった、というウスペンスキーの言葉からも明らかである。ウスペンスキーは「昨日私は言った‥‥‥」という文章を言おうとする。

 

 「私」という言葉を発音するが早いか、この言葉の意味にまつわる観念がいくつも頭の中に入ってきた。それは哲学的な観念、心理学的な観念、そしてありとあらゆる観念であった。これらはすべてとても重要で新しくまた深遠だったので、「言った」という言葉を発音したとき、自分が口にした言葉の意味が少しも理解できなかった。「私」という言葉にまつわる最初の一連の思考内容をやっとの思いでかなぐり捨て、「言った」という観念に移ったが、ただちにこの言葉にも無限の内容があることを知った。話をするということの意味、思想を言葉で表現することが可能かどうかということ、言うという動詞の過去時制‥‥‥これらの一つ一つが頭に思い浮かぶたびに思考、推測、比較、関連付けが怒濤のように押し寄せてきた。だから、「昨日」という言葉を発音したとき、すでに、なぜこの言葉を口にしたか全く理解できないでいた。けれども、今度はこの言葉がただちに私を過去、現在、未来という時間の問題の深みに引きずり込み、これらの問題とどう取り組んだらいいかという可能性が私の前に開けてきたので、私は思わず息をのんだ。

 

 これもまたすべて全く理の当然である。意識は「溶ける」と、言葉の羅列のような単なる「継起」ではなくなり、「同時展開」となる。つまり鳥観図的な視点をとることができるようになるのである。これは「霊感」と呼ばれている状態と酷似していることは明々白々である。この状態においては作家なり作曲家なりは次々と閃く洞察に遅れをとらないよう最高の速度で書かなくてはならない。

 この比喩から、人間は時間の中に閉じ込められており、ちょうど川に流されるように時間に流されていることが分かる。意味は銀行の広告版のように一瞬閃くが、それを読み取ることは難しい。だが、「心を奪われ」ているときはいつも―― つまり、何らかの意味にすべての注意力を払っているときはいつも―― 時間をゆっくり進ませている。人間はこの「時間をゆっくり進ませる力」をもっているという事実は、人間の状況にまつわるとびぬけて興味深い事柄である。これは、望むならどうにか時間を停め、意味と相対することができるということを暗に示している。普通の人は、自分は時間の奴隷であり、止まることのない川の流れに運ばれるように時間によって運び去られ、ついには人々から忘れられることを当たり前だと思っている。哲学者や神秘家は時間は絶対的なものではないというこの可能性を垣間見ている。人間はもし自分たちの能力を正しく使うことができるようになったら、時間を思いのままにすることができるようになるだろうと神秘家たちは言うのである。

 ウスペンスキーは空間と時間の「非絶対性」を実際に体験した。三十分ほど熱心に訓練をすると、「普通ならとても顔を見分けられないような遠くにいる人の顔を実にはっきりと見ることができるようになった」と言う。空間が「縮ま」ったのである。また別の時には、「実験」をしている真っ最中にモスクワへ行くことにしていることを思い出した。

 

 突如、何の前触れもなしに、イースターにはモスクワへ行くべきでないという忠告を受け取った。なぜ行ったらいけないのか。その答えとして‥‥‥この実験をした日以降一定の順序で事態が推移していくさまが見て取れた。突飛なことは何も生じなかった。けれども、私がはっきりと見てとることができ、実験をした日に存在していた原因は徐々に展開していった。そして、最終的な結果にまで到達すると、イースターの直前に一連の困難を生み出し、そのために結局私はモスクワへ行くことができなくなった。これは単に奇妙な事実だというだけのことだったが、おもしろいのは、未来を予測することができる―― 未来全体が現在の中に含まれている―― という可能性らしきものを見て取ることができたことだった。イースターより前に起こることがすべて、二カ月前に存在していた事柄から直接に生じるのを私は見たのである。

 

 ウスペンスキーの透視は現代の「カオス理論」と真っ向から対立する。「カオス理論」を基礎づける数学規則にしたがうと、二、三日先の自然界の推移(たとえば天候)を予測することは不可能なのである。

 神秘的な状態においては、「連続的」である通常の時間の感覚も消える。あるいは、ウスペンスキーに言わせれば、「通常の時間の感覚とともに、ないしはその中に、いわばもう一つの時間の感覚が現われ、文章中の二つの言葉ならぬ通常の時間の二つの瞬間のあいだに別の長い時間が入って来るのである」言い換えれば、「連続した時間」のある瞬間とある瞬間のあいだに「鳥観図的時間」、がさっと入り、まるで別の次元のように連続した瞬間と「交差」するのである。” (P70~P72)

 

(コリン・ウィルソン「二十世紀の神秘家 ウスペンスキー」(河出書房新社)より)

 

*P・D・ウスペンスキーは、ロシアの神秘思想家、G・I・グルジェフの高弟で、グルジェフの指導の下で、意識の覚醒、高次の知性センターの目覚めを体験しました。そのときのワークの内容を詳しく書き記した彼の著書、「奇跡を求めて グルジェフの神秘宇宙論」(平河出版社)はグルジェフに関心を持つ者には必読の書となっています。

 

*「『事物』は存在せずに『関係』のみが存在する世界」というと、仏教で言う「縁起」が思い浮かびます。また、意識は『溶ける』と、言葉の羅列のような単なる『継起』ではなくなり、『同時展開』となる」ともありますが、「霊界物語」ご口述のときの出口王仁三郎聖師の意識状態が、まさにそのようなものであったようです。聖師は、「すべて霊界にては時間空間を超越し、遠近大小の区別なく、古今東西の霊界の出来事は、いずれも平面的に霊眼に映じますので、その糸口をみつけ、なるべく読者の了解しやすからんことを主眼として口述いたしました‥‥‥」と書いておられますが、そもそもすべてが同時展開する世界で「糸口をみつけ」られること自体が驚異的だと思います。出口ナオ開祖のお筆先に、聖師のことを「このものはばけものじゃ」と出たことがありましたが、まさに大化物であり、人間業ではありません。ウスペンスキーは結局、高次の意識状態においては「文章を完成させることができなかった」のですが、次々と文章を口述し、膨大な分量(全81巻83冊)の物語を完成させた出口聖師は、ケタ違いの脳の情報処理能力、より高次元の知性センターをもっておられたということですし、「そのご口述は、蚕が糸を吐く如く一言一句の淀みも言い直しもなく、ご口述中は幾度も大イビキをかいて寝入ってしまわれたが、寝入った時もご口述は継続していた‥‥‥」という筆録者の証言や、ある日のご口述を終えられた時に聖師が言われた「これ以上続けると、わしの血が枯れてしまう」という言葉にも納得できます。「霊界物語」が、他の自動書記や神示などとはまったく次元の異なるものであることは明らかであり、本当にこれは途轍もないものであって、私の感覚では書物と言うよりもむしろ生き物のようで、あまりにも我々の理解力を超えているがために、なかなか世に受け入れられないのは仕方のないことなのかも知れません(ちなみに、私は「日月神示」などは凶党界のものだと思っています)。

 

*また、「未来を予測することができる―― 未来全体が現在の中に含まれている―― という可能性らしきものを見て取ることができた」とありますが、ここには「未来予知」や「雛形経綸」の仕組みが示されているようにも思えます。「霊界物語は大神劇の脚本」であるとも語られていますが、未来において特定の事象を引き起こすために、何時何処で何を行えばよいかを正確に知る事ができ、そのような仕組み、型を出すことができるとしたら、未来は思いのままになります(もちろん、人間には本来は自由意志がありますし、高次元の存在の介入もあり得ますので、決して未来は細部まで確定しているというわけではありません)。長女直日(後の三代教主)が小学生のとき、学校へ提出する書類の「父親の職業」の欄に、出口聖師自ら「世界改造業者」と記入されたように、巷では「出口王仁三郎」を、単なる霊能者や予言者のように思っておられる方が多いようですが、出口聖師は「経綸」を行われ、未来を新たに創造されたのであり、霊能者などとは全くレベルが違います。

 

 “今迄は世界は王仁の言うた通りになったが、これから世界は王仁の思うた通りになる。(昭和十七年七月)”

 

 “マッカーサーもスターリンもスリ鉢の中の味噌である。スリコギを廻してゐる者が判らないのだ(と味噌をする真似をして見せられた)。(昭和二十年十月四日)”

 

(木庭次守編「出口王仁三郎玉言集 新月のかけ」より)