神と数学 〔ラマヌジャンの数式〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “彼の心の内奥で数学的なものと形而上学的なものとが手に手をとって緊密に結びついていたことを物語る逸話は数多い。例えば、パシャイアパ大学生の頃、病を患っている子どもの両親に向かって、子どもを『方違へ』させるように警告したという話が伝えられている。彼の説明では「人間の死はある空間と時間との結節点でのみ起こるものだから」。また、流血で赤く染まったスクリーンに一本の指で楕円積分を描いている夢をみたこともあった。

 彼の持論のひとつに、2ⁿ-1という数式に関する解釈がある。この式は、彼の考えによれば、「創造の神と他の神々を表徴している」のである。「n=0のときこの数式は0、つまり無を表す。n=1のとき数式は単位数1、つまり造物主を、n=2なら数式は3、つまり三位一体を、n=3ならば数式は7、つまり七賢人を表す……」というのである。

 ラマヌジャンは好んで形而上学的な思索に耽った。クンパコナムにいたころ、サーチャープリーヤ・ラーオという体育教師がいたが、彼の狂騒ぶりは寛大な南インドの人々でさえ耐え難いものだった。この人物はよくコーヴェリ川の岸辺に立ち、太陽をじっと見つめながら夢中にわめきつづけるのだった。ヒステリーが昂じると、鎖で縛りつけねばならなかった。誰も彼をいたわらなかったが、ラマヌジャンだけは時々彼のために食物を集めてきてあげた。奴も気狂いの仲間なのだと揶揄したものもいたが、「その通りさ」と彼は釈明したものだった。「僕にはわかっているんだ、彼が幻覚をみていること、彼にはとても小さな生き物がみえていることが。サーチャープリーヤは前世でたいそう徳を積んできたに違いない。世間の人々が狂人の戯言と片づけているものが、実は宇宙を視るための高度に進化した想像力なのだ」。

 時代が下り、イギリスでラマヌジャンは0と無限をめぐる現実の理論を組みたてることになるが、友人たちには彼の言うことの要点がよくのみこめなかった。0は絶対実在を、無限(∞)はその多様な顕在化を、そして両者を掛け合わせた積、∞×0はあらゆる数を表徴し、そのひとつひとつが創造の営みに対応している、というのだ。こういった発想は、多分哲学者からみて、そして間違いなく数学者からみて、馬鹿げていると思われただろうが、ラマヌジャンはそこに何らかの含意を認めたのである。友人のマハーラノービス―― ケンブリッジの部屋で彼がぶるぶる震えているのをみつけた人物だが―― は、ラマヌジャンが「あまりに熱っぽく哲学的な問題を語るので、彼は数学的に厳密な論証よりも哲学理論を完成させるほうが楽しいのでは、と思うときもあった」と書いている。

 西欧には、数学的真理は数学者が創造したものなのか、それともすでに存在していたものが彼らによって暴かれたものなのか、という論争が昔からある。ラマヌジャンは紛れもなく後者の陣営に属していた。数字とその数学的な関係式は宇宙の成りたちを知るための重要な手がかりだ、と彼は考えていた。新しい定理が発見されるたびに、底知れぬ無限の断片がひとつずつ明らかにされてゆく、と。従って、「神についての思索を表現しない方程式は僕にとって無価値である」と友人に語ったときの彼は別に愚かだったわけでも、巫山戯(ふざけ)ていたのでも、洒落気があったわけでもなかったのである。”(P 69、70)

 

 “何といっても彼が探求を究めたのは無限級数の世界である。それは『ノート』のほとんどのページに現れているし、一九一一年に公表された処女論文の主題にもなっている。「無限級数はラマヌジャンにとって初恋の人だった」と、ある数学者は書いている。無限級数の存在を告げる六つの点「……」は、彼の『ノート』に早い時期から現れていた(もっとも「同じこと」を意味する‟&c‟とだけ書かれる場合の方が多かったが)。それはある特定パターンに倣って数字や代数式を追加してゆくことである。例えば、1+2+3+……では、明らかに次項は4で、その次が5、といった具合に続いてゆく。

 もちろん、これにはさしたる面白味はない。このような項を無限に加えると、無限にしかならないからだ。無限級数を非常に興味深く、また価値のある研究対象としているのは、その和が際限なきものではなく、ある一定の数に限りなく近づくときがあるという事実なのだ。そのような無限級数は「ある特定の数値へ収束する」といわれる。例えば、1+1/2+1/4+1/8……という数列では次に1/16、1/32と続く。奇妙なことに―― すでにギリシャ時代から知られていたが―― 各項の減少する割合が非常に大きいため、この数列の和は無限に項を加えれば加えるほど限りなく2という単純な数へ収束するのである。

 かといって、1より小さい数の数列がすべて収束するわけではない。例えば、1+1/2+1/3+1/4+……という数列は一件前の収束数列と同じように見えるが、実は収束しない。好きなところまで数列を加えてゆき、数値Aに近づいたとしよう。しかし、さらにいくつかの項を加えると、Aを越えてしまう。この数列和は2だろうか?いや、それならば最初の四項で超えてしまう(1+1/2+1/3+1/4=(12+6+4+3)/12=25/12)。3かもしれない?いや、第11項目で超えてしまう。それでは10か?ところが一二三九〇項までを加えると10を超えるのだ。この数列に対しては、どんな数に対しても同じことが成立すると証明されている。つまり、この数列和は無限であり、収束しないのだ。

 数学者の興味をそそるのは、このように収束する数列、あるいはある条件下で収束する数列である。そして、一体、どんな数値に収束するのか、これが彼らの胸をわくわくさせるのだ。”(P91) 

 

 “彼もまた終生ナマギーリの御名を唱えつづけ、その恵みを請い、その助言を求めたのである。数学に対する自分の才能はナマギーリ女神からの授かりものだ、とよく彼は友人に打明けていた。ナマギーリが自分の舌に方程式を書いてくれるのだ、と。数学の着想が夢の中で閃くと、それもナマギーリのせいにした。”(P44)

 

    (ロバート・カニ―ゲル「夭折の数学者ラマヌジャン 無限の天才」工作舎より)

 

*32歳で夭折した、インドの天才数学者、シュリーニヴァーサ・ラマヌジャン(1887~1920)は様々な驚異的な逸話で知られており、最近はそれらがネットでも紹介されています。しかし日本では彼に関する本はまだそれほど多くはありません。ここで紹介させていただいた「無限の天才」では、他にも様々な興味深い話が載せられており、ラマヌジャンに関心を持つ方には必読の本だと思います。あと、藤原正彦先生の「心は孤独な数学者」(新潮文庫)でも、彼の生涯についてかなり詳しく記述されています(藤原先生はラマヌジャンの足跡を訪ねて実際にインドまで行っておられます)。

 

*「収束する無限級数」について、私はあまり数学の知識はありませんが、「無限なる神がどうして有限(人格神)となれるのか」、「有限でありながら同時に無限でもあるということは矛盾ではないか」「無限なるものの個性とは」といった、多くの人々の頭を悩ませてきた神学的な問題に解決を与えてくれるもののように思えます(あと「ゲオルク・カントールの集合論」など)。

 

*ナマギリの女神というのは、ラーマやクリシュナなどの最高神ヴィシュヌの10の化身の一つ、ナラシムハ(ライオンの頭の神)の妃である女神です。ラマヌジャンの家系は代々この女神を崇拝しており、彼がイギリスへ行くことができたのも、夢に現れたナマギリの女神のお告げのおかげでした。「舌に方程式を書いてくれる」とありますが、同じような話を聖者ラーマ・クリシュナについての本で読んだことがあります。ヴィジナーナーナンダという弟子が、ラーマ・クリシュナから舌を出すように言われ、その通りにすると、師は舌の上に指でマントラを描き、その途端に弟子の意識はサマディ(三昧)に没入した、というものでした。ヒンドゥには、そのような「舌」を通じての霊性の伝達というものがあるのでしょうか(ホメオパシーではレメディを舌の下に入れますが)。