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こんにちは、ちはるですチューリップ

 

 

 

 

私は今、アメブロトップブロガーであり

現在は大手企業勤務を卒業して

起業家として独立された、五十嵐花凛さんによる

ファンビジネス講座(略してファンビジ)

に参加しています気づき

 

 

 

今の自分のままで

自分のファン【Fan】を増やしながら

楽しく【Fun】稼いでいこうというのが

テーマの講座です飛び出すハート

 


 

 

 

 

 

それぞれが自己理解を深め、

自分のブランディングを考えて、

商品設計に取り組んでいる

段階なのですが、

 

他のメンバーを見ていて思うのは

 

「この人もっとすごいのに

それが伝わっていなくて惜しい…」

 

「もう少しここを深掘りして整理したら

なんでその商品を提供するかという

WHYが伝わるのに…」

 

ということ。

 

 

 

 

 

そこで、私の裏メニューとして、

気になる人にインタビューをして、

それを文章にまとめるということを

やってみました。

 

 

 

 

スタエフのような音声だと

リアルなインタビューになりますが、

 

整理してまとめるという点と

見返しやすさという点では

文字のほうがいいですよね。
 

(私も文字のほうが得意ですし)

 

 

 

 

 

 

▼インタビュー第1弾はこちら。

 

 

 

 

今日は、そのインタビューシリーズの第2弾。

 

 

 

 

45歳からでも遅くない!

オーダーメイドの

資産形成伴走サポート

について発信し、

活躍されている 和田おはまさん。
 

 

 

 

経歴を伺うと、

未経験ながら37歳で

証券営業の世界に飛び込み

最高年収は

なんと5,000万円(!)

だったとのこと。

 

 

 

思わず「一体どういうこと?」

聞きたくなってしまう経歴を

たくさんお持ちのおはまさんに、

インタビューさせていただきました。

 

 

 

 

 

 

―おはまさんと言えば関西弁の印象です。ずっと関西にお住まいですか?

 

1965年に岡山で生まれて、父の転勤で11歳のときに兵庫県に来ました。以来ずっと兵庫に住んでいます。

 

 

 

―お父様は転勤のあるお仕事だったのですね?

 

父は若い頃、船乗りで海外へ行ったりしていました。


その後は造船会社に転職しましたが、私が中学生の頃、リストラされて。
父の次の仕事がなかなか決まらない中、専業主婦だった母もパートに出たりしていましたね。
修学旅行のときに自分だけ健康保険証がなかったりして、「お金がないって大変なことなんやなー」と、子供ながらに大きなインパクトを受けた出来事でした。

 

父は何とか再就職し、私と3歳上の姉は短大に進学して、私は短大を卒業した後、1986年に大手証券会社に入社しました。

 

 

 

―なぜ就職先として証券会社を選んだのですか?

 

サラリーマンとしては苦労した父からの助言でした。
「証券会社は給料が高いからいいぞ」と勧められたので、父の言うことを聞いておけば間違いないかなと。
証券会社が何をやっているところなのかも分からないまま、入社しました。

 

 

 

―これまでのブログも拝見すると、いろいろな場面でお父様からの教えがおはまさんの選択に大きく影響していますよね。

 

そうです。思春期には、父が疎ましくなった時期も人並みにありましたが、父への尊敬というのは大きいです。
あらゆる場面で「父の言うことを聞いておいたほうが間違いない」と頼りにしていました。

 

 

 

―入社後は事務職として働かれていたのですよね?

 

入社試験では「営業を頑張ります!」と答えたほうが採用されるかなと思い、そのように宣言していたのですが…。

4月入社の予定でしたが、証券会社にとって3月は繁忙期なんです。
会社から声をかけられて、入社前の1ヵ月間、事務職のサポートというかたちでバイトをしていました。
そのとき、事務職の先輩から「営業職は数字を求められてとにかく大変よ」と脅されて(笑)
当時は一般職で採用されると、営業職か事務職の二択だったのですが、先輩の話を受けて、入社後は事務職を希望しました。

 

 

 

―入社してみても、やはり営業職は大変そうでしたか?

 

そうですね。同期入社が11人いて、営業職に7名、事務職に4名配属されましたが、営業職になった7名のほうがみんな先に辞めていきましたね。
私がのちに37歳で営業職に配属されたときには、同期の7名は誰も残っていませんでしたから。
途中でバブルがはじけて、その後株価が低迷したこともあり、数字がきつくて大変そうでした。

 

今では問題になりそうですが、かなり厳しい上司がいて、営業成績が振るわないと「ハンカチ持って、別室へ来なさい」と呼び出されていましたね。


営業職は精神的にかなり追い詰められているようで、事務職から営業職へ移った人たちも、みんな長続きせず辞めていきました。

私は後々営業職へ転向したのですが、はじめから営業職に配属されていたら、きっと早々に挫けていたと思います。

 

 

 

―27歳で最初の結婚をされて、28歳、30歳でご出産されたのですね。育休を取得されたのは会社でも初めてのケースだったとか?

 

当時は情報がなくて、他の支店の情報は分かりませんでしたが、私が勤めていた支店で育休をとったのは私が初めてでした。

 

結婚までの腰掛けのつもりで就職した証券会社でしたが、仕事が嫌ではなかったんです。


父から「会社員にとって、辞めるのは最大の権利。育休の制度があるなら取ったほうがいい」と勧められて、「育休を使って会社に残れるなら残ってもいいか」と思い、取得したんです。

 

 

 

―支店で初めて育休をとるとなると、周囲の反応はどうだったんでしょうか?

 

嫌がらせを受けましたね(笑)
「大きなお腹で1階をうろうろされたらお客さんの目に入るから、別のフロアに移って」と言われて。
言われた通り別のフロアへ移ったんですが仕事がもらえず、ぼーっとしていたら「やる気がないのか」と言われましたね。

 

 

 

―そんな理不尽な…。

 

今でいうマタハラですね。
でも、当時の夫が会社まで来て文句を言ってくれて、その後は嫌がらせもなく臨月まで働けました。


嫌がらせを受けたことで「負けたくない」「辞めるもんか」と思い、意地になりましたね。

 

父からのアドバイスで育休を取得しましたが、その後離婚し1人で子供を育てることになったわけなので、あのとき辞めなくて本当に良かったと思っています。

 

 

 

―お子さんを続けて出産されて、その頃からお姑さんと同居されたのですよね。

 

長男の育休を2年間とりました。子育てはあまり向いていないなとは思いましたね。


育休は延長できるけれど短縮できないという決まりがあって、長男と次男の育休を続けてとり、3年間休みました。

 

次男を出産後、舅が亡くなって一人暮らしをしていた姑と同居するようになりました。
ところが、いろいろ口出ししてくる姑と揉めるようになって…。

 

次男を産んで1年後に、長男と次男を同じ保育園に預けて仕事に復帰しました。31歳のときです。
当時は時短勤務はなかったので、フルタイムでしたね。

 

朝、車で家を出るときに姑が外まで見送ってくれていたんですが、その姿が見えなくなると、ようやくほっと一息つけるんです。
家にいるよりも、会社にいたほうがまだマシで、気持ちが楽でした。


事務職だったので、「ここまでやれば終わり」というのがありましたからね。

 

夫ははじめ私の味方をしてくれていたのですが、次第にうまくいかなくなりました。
夫から「自分が大事にしているお母さんのことを大事にしてくれないというのは、価値観が合わない」。そんなことを言われました。

 

実家の両親も「帰っておいで」と行ってくれたので、4歳の長男、2歳の次男を連れて実家へ戻り、別居生活になりました。

 

親権を巡る裁判を経て、長男が小学校に上がる直前、正式に離婚が成立しました。
離婚協議中、夫からは「子育てに向いていない」とか自己肯定感が下がるようなことを言われて、メンタルも落ち込みました。
カウンセラーに相談したりもしていましたね。

当時は離婚も珍しかったので、「人生に失敗した人」という風に自分でも感じていました。


とにかく、子供たちに対して申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。

やっと離婚のゴタゴタが一段落したと思ったら、子供会の役員とか、学童保育の会長などが回ってきたこともありました。

 

 

 

―仕事、育児に加えてそんな役回りまで?

 

うっかりしていて、学童の集まりに参加しなかったことがあったんですが、欠席していた私に会長の仕事が押し付けられたんです(笑)

子供を通わせていた学童の人数が増えて、第2学童を作らなければならないとなったんですが、前例がないから何をしたらいいのかも分からなくて。
市議会へ要求を持っていかなければということで、保護者に働きかけて署名を集めたり、いろんな人に根回しをしたりしていました。

 

 

 

―相当お忙しかったですよね?

 

両親にはいろいろ助けてもらいました。
ただ、両親はすでに年金暮らしだったので、経済的にはそんなに余裕があるわけではなくて。


事務職として働きながら、いずれ営業職に転向する可能性を考えて、AFPというファイナンシャルプランナーの資格をとり、仕事を頑張っていました。

 

 

 

―その後、37歳で営業職へ転向されたんですよね。

 

営業職へ移ったのは、会社の人事制度が変わったためで、やむを得ずでした。

それまで事務職は年功序列で給料が少しずつ上がっていたのですが、制度が変わると月給20万円に下がり、しかも昇給もしないということになって。

 

実家に身を寄せていたから、家賃はかからないわけで、月給20万円でも生活に困るということはありませんでしたが、息子たちを大学まで行かせてあげたいと思うとお金が足りませんでした。

息子たちを大学に通わせるために、消去法的に営業職の道を選んだんです。
引っ込み思案な私に営業職ができるだろうか?とビビりながらでしたが…。
やっぱり自分に営業が向いているとも思えなかったし、「バリバリ稼ぐぞ」なんて気持ちはありませんでした。

 

そのときも、父が「会社員なんて、例えできなくても、できると言ったもん勝ちだ」と背中を押してくれました。

 

 

 

―慣れない営業の仕事を頑張る中でも、お父様からの言葉が支えやヒントになったと、ブログでも書かれていましたね。

 

そうですね。
でも、私が38歳のときに父が亡くなりました。
少し前から心臓の調子が思わしくなかったのですが、急に亡くなってしまったんです。
精神的にとても支えになってくれていたので、私も子供たちもすごくショックで、しばらく立ち直れませんでした。

 

 

 

―営業職に転向して、どんなことから始めたのですか?

 

まず、東京で1ヵ月間研修を受けました。
「株式とは何か」とか、自社で取り扱っている商品のこととか、基本的なことです。

 

 

 

―そこで基礎的なことを学ばれたのですね。でもそれだけでいきなり営業へ行けと言われても大変ですよね?

 

そうなんです。
たった1ヶ月の研修を受けて支店へ戻ったんですが、お客さんの電話を受けても話がさっぱり分かりませんでした。
「今日はどう?」と聞かれても何のことか分からなくて、それが日経平均のことだというのも知りませんでした。

事務職として、営業職の人たちの隣で仕事をしていたのに、営業の仕事の中身が全然分かっていなかったんですね。

 

 

 

―お客さんからいろいろ聞かれても、分からないこともあったのでは?どうやって乗り切ったんでしょうか?

 

分からないことを聞かれても、適当にごまかすことが上手だったんです。
お客さんから「あんた分かってないやろ?」とは一度も突っ込まれませんでしたね。
適当にごまかすのは上手だったので(笑)

37歳という年齢もあって、「何も分からない新人」とは見えず、いい具合に説得力が出せていたのかもしれません。
ぼろは出しませんでしたが、分からなかったことは後から調べて、一つずつ勉強していきました。

 

 

 

―慣れない営業の仕事で、専門的な知識も、営業職としてのスキルも、イチから身につけていくのは大変だったのではないでしょうか。

 

ストレングスファインダーの資質でも「学習欲」が入っていて、勉強するのは苦痛ではありませんでした。

営業職になって1年くらい経つ頃、会社の後輩(営業職としては先輩の子)から誘われて、CFPというファイナンシャルプランナーの上級資格にも挑戦したんです。

 

 

 

―CFPという資格は初めて聞きました。難しい資格なのですか?

 

合格率が6〜8%という資格で、金融業界では一目置かれる資格なんです。

私含め3人で資格の勉強をして、予備校のようなところにも3ヶ月くらい通い、昼休みにご飯を急いで食べて勉強をしたり、土日の早朝に時間を見つけて勉強したりしていました。


私以外の2人は途中で脱落しましたが、「せっかくやりだしたんだから」「ここまで頑張ったのだから」と思い、最後まで頑張りました。

1年半くらいかけて勉強し、合格しました。


後々、この資格があることで転職のときにも有利だったので、頑張ってよかったと思っています。

 

 

 

―すごいですね。一度決めたらやり抜くというおはまさんらしさが出ているエピソードだと思います。厳しい営業の仕事をしていて「他の仕事に転職しよう」とかは考えなかったのですか?

 

しょっちゅう考えていましたよ(笑)
給料が安くてももっと楽な仕事のほうがいいかなって思って、上司にもよく言っていました。「私、営業向いてないんで、クビになったらスーパーで働きます」と。
特に歩合制になってからは何度も辞めたくなっていました。

 

 

 

―それでも営業の仕事で頑張り続けたのですよね。途中から歩合制になったんですか?

 

営業の仕事をはじめて3年後くらいだったと思います。CFPを取得して40歳のときでした。
このときも「バリバリ稼ごう」とかそんな気持ちはなくて、消極的な選択でした。

なかなか営業成績が上がらないまま、評価が低いので降格するか、歩合制になるかという選択を迫られたんです。

 

そのときに父は亡くなっていて相談できなかったので、一回り以上くらい年上の、支店長車の運転手のおじさんに相談しました。

営業職になったばかりの頃、車が空いているときにお客さんのところまで乗せてもらったりしていて、右も左も分からない頃からすごく応援してくれていたんです。

おじさんから「歩合に行ったほうがいいんじゃないか」と背中を押してもらって、こわごわ決断しました。

後に会社を辞めるか迷ったときも、そのおじさんが相談にのってくれて、父親代わりのような感じでしたね。

 

 

 

 

結果が求められる厳しい営業の仕事。

 

スーパーで働くという選択肢も

頭に浮かんでいた中で、

それでもおはまさんが頑張り続けた原動力とは?

 

 

 

▼後編はおはまさんのブログで

 

 

 

 

 

ここまで読んでくださり、ありがとうございました花

 

 

 

 

 

1月のリアルイベントでは

おはまさんはじめ、起業・副業で頑張る女子武士たちの

いろんな事例が見れるのでおススメ気づき

 

参加者は戦わないので別に怖くないです爆笑