《前編》 より
【過去に係留される意識、未来を知っている無意識】
意識の世界がやることは、過去のあなたと現在のあなたのつじつまを合わせることなのです。つまり意識はあなたを過去に合わせようとします。しかし、無意識は未来を知っています。
・・・(中略)・・・ 。
無意識にアクセスすれば、意識が握りしめるハンドルを手放し、あなたはどんどんワープできます。(p.184)
下記リンク著作がテーマとしているポイントを、別な表現で言えばこうなるだろう。・・・(中略)・・・ 。
無意識にアクセスすれば、意識が握りしめるハンドルを手放し、あなたはどんどんワープできます。(p.184)
【人に親切をせず、人を救おうとしなければ、運命は良くなる】
「私は結果」であって、私の「原因」にも、人の「原因」にも直接なることはできないのだから、人が人を助けるということはあり得ない、という結論になる。このことを理解して生きれば、余徳がある。
「私は結果」であって、私の「原因」にも、人の「原因」にも直接なることはできないのだから、人が人を助けるということはあり得ない、という結論になる。このことを理解して生きれば、余徳がある。
人に親切をせず、人を救わないようになると、生きるのが楽になるはずです。いかに自分を犠牲にすることに縛られていたかが分かるからです。(p.99)
「私は原因」 と考える人は、親切にすることで恩を売って見返りを求めるようになる。
見返りが捨てられないとすれば、恩を売るほうをやめることなのです。
・・・(中略)・・・ 。
愛ってなんでしょうか、我が家にとっては、「恩を売り買いしなくてもすむ間柄」 です。(p.121)
・・・(中略)・・・ 。
愛ってなんでしょうか、我が家にとっては、「恩を売り買いしなくてもすむ間柄」 です。(p.121)
【私たちは代替可能であり一過性である】
「私は結果である」 という考え方から存在理由を見いだせる人々が多くなり、そういった人々の数がある臨界点を超えたら、社会は驚くべき進化を遂げるだろう。
現在の人類の生き方は、ブレーキを踏みつつアクセルを踏んでいるようなものなのである。
特に日本人にとってはそうである。 “和魂” 自体が先天的に有する自然流としてのアクセルが、“洋才” という後天的ブレーキに踏みつけられているのである。
あなたがいなくても会社は困りません。あなたが会社員ならば、あなたが辞めてもすぐに次の人が入ってきて、何の支障もなかったように会社は動いていきます。
そうです、あなたは代替可能なのです。 ・・・(中略)・・・ 。
もちろん総理大臣だって同様です。医者だって同じです。 ・・・(中略)・・・ 。
代替可能だということは、私たちは一過性だということでもあります。
しかし私たちは、その逆の生き方をしなさいと教わってきました。世の中から必要とされる人になりなさい、あなたはオンリーワンになりなさい、そういう目標を見つけなさい、見つけたらそれに一生をかけないさい・・・・・と。
それは 「私は原因」 の考え方でもあります。自分が何らかの点で社会を動かし、社会に影響を与えている。そしてそこにあなたは、存在理由を見いだそうとするのです。
しかしあなたが 「私は結果」 としてしか、社会のなかに存在していないのですから、社会を 「動かして」 いるあなたに固執して満足することは、全く無意味です。あなたは実のところ、社会に発された 「問い」 であり、その 「答え」 でしかないからです。(p.185-186)
最後の記述は、「何をしても無駄だよ」 と言っているのではないのは言うまでもない。根源的な実相を語っている。そうです、あなたは代替可能なのです。 ・・・(中略)・・・ 。
もちろん総理大臣だって同様です。医者だって同じです。 ・・・(中略)・・・ 。
代替可能だということは、私たちは一過性だということでもあります。
しかし私たちは、その逆の生き方をしなさいと教わってきました。世の中から必要とされる人になりなさい、あなたはオンリーワンになりなさい、そういう目標を見つけなさい、見つけたらそれに一生をかけないさい・・・・・と。
それは 「私は原因」 の考え方でもあります。自分が何らかの点で社会を動かし、社会に影響を与えている。そしてそこにあなたは、存在理由を見いだそうとするのです。
しかしあなたが 「私は結果」 としてしか、社会のなかに存在していないのですから、社会を 「動かして」 いるあなたに固執して満足することは、全く無意味です。あなたは実のところ、社会に発された 「問い」 であり、その 「答え」 でしかないからです。(p.185-186)
「私は結果である」 という考え方から存在理由を見いだせる人々が多くなり、そういった人々の数がある臨界点を超えたら、社会は驚くべき進化を遂げるだろう。
現在の人類の生き方は、ブレーキを踏みつつアクセルを踏んでいるようなものなのである。
特に日本人にとってはそうである。 “和魂” 自体が先天的に有する自然流としてのアクセルが、“洋才” という後天的ブレーキに踏みつけられているのである。
【根源的な問い】
人生に関する根源的な問いの場合は、組織やビジネスといったレベルのネットワークではなく、運命上のネットワークに関わっている。
夢を手放してより根源的な問いを問うということは、カヌーを捨ててタイヤに乗り変えて川を下ることであり、意識層から無意識層へ参入することにもなるのだろう。坂本政道さんの言葉でいえば、超意識の活用ということになるのではないだろうか。そこではガーディアン・エンジェルの強力なバックアップが加わるからこそ、運命が良くなるのである。
《参照》 『超意識 あなたの願いを叶える力』 坂本政道 (ダイヤモンド社) 《後編》
【超意識】~【人生という学校】
私は小学生のとき何になりたいかと聞かれ、科学者になりたいと答えました。しかし私はその夢を捨てざるをえませんでした。根源的な問いが発生したからです。
「私はなぜ生まれてきたのか?」 ・・・・ こういった問いは科学を越えていました。
・・・(中略)・・・ 。
夢は普通 「××になりたい」 だと思います。
パイロットになりたい。およめさんになりたい。芸術家になりたい。
つまり自分がなりたい職業についたり、自分の性としての役割をまっとうしたりするのが、一般的な 「夢」 だと思います。
しかし、根源的な問いから見れば、夢など 「それがどうした状態」 になってしまうのです。(p.79-80)
一般的な問いであっても、答えを人に頼る人が少なくないけれど、これでは自分自身が向上しないし、社員が揃ってそうであればその会社は成長しない。中小企業などで経営者がいなくなったら経営が立ち行かなくなってしまう事例はまさにこれだろう。そうならないためのビジネスに関する根源的な問いに関しては、(p.187) に書かれている。「私はなぜ生まれてきたのか?」 ・・・・ こういった問いは科学を越えていました。
・・・(中略)・・・ 。
夢は普通 「××になりたい」 だと思います。
パイロットになりたい。およめさんになりたい。芸術家になりたい。
つまり自分がなりたい職業についたり、自分の性としての役割をまっとうしたりするのが、一般的な 「夢」 だと思います。
しかし、根源的な問いから見れば、夢など 「それがどうした状態」 になってしまうのです。(p.79-80)
人生に関する根源的な問いの場合は、組織やビジネスといったレベルのネットワークではなく、運命上のネットワークに関わっている。
夢を手放してより根源的な問いを問うということは、カヌーを捨ててタイヤに乗り変えて川を下ることであり、意識層から無意識層へ参入することにもなるのだろう。坂本政道さんの言葉でいえば、超意識の活用ということになるのではないだろうか。そこではガーディアン・エンジェルの強力なバックアップが加わるからこそ、運命が良くなるのである。
《参照》 『超意識 あなたの願いを叶える力』 坂本政道 (ダイヤモンド社) 《後編》
【超意識】~【人生という学校】
【視野を狭くしない】
故に、ポイントが明確であればあるほど視野狭窄に陥っているという逆転現象になってしまっている場合がありうるのである。それらのデメリットを回避するためにこそ、著者は滅多に本を読まないのであり、もしも読むなら極力読書のジャンルを狭めないことが必要なのである。
読書傾向がバラバラのチャンちゃんにとって、特異な光芒を発する内容を著しているのが、森田健さんなどの著作であり、それらの多くは、常に最新の時流を紹介し続けてくれている船井幸雄さんの著作の中で紹介されていたものに重なっている場合が少なくなかった。その理由として考えられるのは、根源的な問いを持ちながら生きている人々は、本を読んでいようといまいと、やはり同じような領域に目が向くようになってゆくのだろう、ということ。
論理を追い詰めれば論理の限界に行きつくのであり、意識を追い詰めれば無意識領域の可能性に思い至って驚句するときが来る。多分いつの時代も、そこに行きついていた人々によって時代は先導されてきたのであり、現在はかつて歴史上になかったほど、そういった人々がより多く活躍している時代なのだろう。
著者の顔写真がカバー折り返しの部分に掲載されているのだけれど、チャンちゃんには、運命におまかせしきっているが故にユルユルに弛緩した顔をしているように見えると同時に、「もしかしたら、ソクラテスってこういう顔をしていたんじゃないだろうか」 と闇雲に思えてくるのである。ソクラテスは、弟子のプラトンが二項対立の「論理」に傾斜してゆく以前の「前論理」的世界観を持っていた人だと思っているから、この森田さんの「根源的な問いを問う視点」と、ソクラテスの「前論理」は、同じ地平ないし近しい地平なのではないかと思えてくるのである。
中途半端な量の本を読み、積年の論理的世界観が生み出した世界認識に狎れきってしまっていたり囚われてしまっている知性では、この本の良さが分かりづらいことだろう。
「もりけんさん(私のあだ名)はたくさんの文章を書いているから、相当な読書家でしょと聞かれますが、本を読むことは滅多にありません。自己啓発セミナーにも出ません。
それはなぜかと言えば、積極的に探しに出れば、視野を狭くするからです。(p.203-204)
本を読んでいれば、ある時点からあらゆる書物に共通する傾向は分かってくる。それは、いずれの書物であるにせよ、著者の視点の産物であり、著者の過去に関わってできた表現でしかないということである。そして、どの著者もそれらのいずれかの著作を参考にして、自分が表現しやすい点を取り入れているというだけのことなのである。自己啓発系は最もそうなりやすいジャンルだろう。それはなぜかと言えば、積極的に探しに出れば、視野を狭くするからです。(p.203-204)
故に、ポイントが明確であればあるほど視野狭窄に陥っているという逆転現象になってしまっている場合がありうるのである。それらのデメリットを回避するためにこそ、著者は滅多に本を読まないのであり、もしも読むなら極力読書のジャンルを狭めないことが必要なのである。
読書傾向がバラバラのチャンちゃんにとって、特異な光芒を発する内容を著しているのが、森田健さんなどの著作であり、それらの多くは、常に最新の時流を紹介し続けてくれている船井幸雄さんの著作の中で紹介されていたものに重なっている場合が少なくなかった。その理由として考えられるのは、根源的な問いを持ちながら生きている人々は、本を読んでいようといまいと、やはり同じような領域に目が向くようになってゆくのだろう、ということ。
論理を追い詰めれば論理の限界に行きつくのであり、意識を追い詰めれば無意識領域の可能性に思い至って驚句するときが来る。多分いつの時代も、そこに行きついていた人々によって時代は先導されてきたのであり、現在はかつて歴史上になかったほど、そういった人々がより多く活躍している時代なのだろう。
著者の顔写真がカバー折り返しの部分に掲載されているのだけれど、チャンちゃんには、運命におまかせしきっているが故にユルユルに弛緩した顔をしているように見えると同時に、「もしかしたら、ソクラテスってこういう顔をしていたんじゃないだろうか」 と闇雲に思えてくるのである。ソクラテスは、弟子のプラトンが二項対立の「論理」に傾斜してゆく以前の「前論理」的世界観を持っていた人だと思っているから、この森田さんの「根源的な問いを問う視点」と、ソクラテスの「前論理」は、同じ地平ないし近しい地平なのではないかと思えてくるのである。
中途半端な量の本を読み、積年の論理的世界観が生み出した世界認識に狎れきってしまっていたり囚われてしまっている知性では、この本の良さが分かりづらいことだろう。
<了>