
出版社から推測できるように、牧師さんの著作。
50程の動詞をタイトルに2ページ読みきりの文章がつづられている。
【気に入った文章:黙る】
黙る : いつだって孤独を生むのは、沈黙ではなくことばなのだ。心に渦巻くことばを鎮めて黙ったときこそ、本来の自分を見出すときであり、初めて他者に出会えるとき。迷ったとき、行き詰まったとき、最も苦しいときは、ことばでごまかさずに、まず、黙る。深く、静に、ゆったりと。
【気に入った文章:問う】
問う : 応える力は与えられた枠組みの中でのみ有効であるのに対し、問う力は枠組みをより広い地平へ開くことのできる力だからだ。きちんと問うことができたとき、その問いは自分自身を解放する力を秘めている。
【気に入った文章:願う】
願う : ジョンとヨーコは息子のショーンに、小さいときからこう教え続けたという。「こうと願って祈ったことは、必ずかなう。願ってできないことは、ない」 ・・・必ずかなうと信じて願い続ける。その願いにこそ、その人の生きる意味がある。願いのうちに、人は死んでも生きる。
【引き金になった文章】
拒む : アイデンティティを拒む、という趣旨の章なのであるが、読んでいて思い出すことがあった。
引き金となったのは以下の記述である。
「たぶん今日の目標は、わたしたちが何者かであることを見出すことではなく、何者かであることを拒むことである」 とは、今は亡きフランスの現代思想家ミシェル・フーコーのことばだ。あらゆるアイデンティティが人を拘束することを知っていた彼は、自分が何かであることを拒むことで、人間のもつ本来的自由の尊厳を守ろうとしていたのである。(p.45)
【この部分を読んでいて思い出すことがあった】
サリンジャーの 『ライ麦畑で捕まえて』 であったように記憶している。私はこの小説をおそらく大学一年の頃読んだのであるが、その解説の中で、初めてアイデンティティ(自己同一性)という言葉に出会ったことを記憶している。そして、「この言葉の意味する概念は、日本人には必要が無いのではないか・・・・」 と漠然と思っていたのだ。
そして大学を卒業して、神道を学びだした頃、神道の基本を学んでいる最中にも、ほぼ同様のことを再び思っていたのだ。
【日本語民族はアイデンティティを必要としない】
サリンジャーを読み終えたとき、そして神道の基本を学んだとき、「私は何者であるのか?」 という問い自体が私には不要なものに思えたのだった。
これは、おそらく、主語なしで文章が成立する日本語を話す人々全てに共通することなのではないかと思っている。日本語民族は、言語特性上、他との関わりの中に自己を見出せればそれでよい民族なのだ。そこに安心を見出すがゆえに、強いて 「自分が何者であるか?」 という問いを発する必要はなかったのである。あるいは最初からそのような問いは不問なのである。自らを明確にせぬが故に自他一体でいられるのである。
中国の天台智ギ(だっかたなぁ?)の語った一即多・多即一や、西欧で語られたホロンの概念などについて、普通の日本人が始めて学んだ時、おそらく 「至極当然」 と思うのではないか。少なくとも日本人は欧米人より、これらの概念を違和感なく受け入れられるはずである。
【日本語の「わ」】
ついでに言うならば、他と関わる中で生まれた 「和」 という概念が日本文化を定めてきたのではなく、日本語の構造が 「和」 という概念で語りうる日本文化を生んでいたのだ。もっと正確に表現するならば、日本語の構造と、「わ(和・輪・環)」 という言霊が日本文化を生んできたのである。 板に粉を載せ、「わ」 という発音で板を振動させると紛は円を形成する。 共生思想の論拠はここにある。
《参照》 『言霊設計学』 七沢賢治 (ヒカルランド) 《前編》
【音霊と形霊の相関を示す「クラドニ図形」】
《参照》 『ここはアセンション真っ只中』 さとう・滝沢・千賀・増川・はせくら他 《後編》
【古代の生命体は、周波数が高かった】
【アイデンティティの枷】
一方、主語を必要とする言語民族は、出発点が既に個であるが故に、アイデンティティなどという概念が不可避的に生じてきたのではないか。個が全体の中に居場所を探そうとする時、あるいは全体の中に回帰しようとするとき、西洋的知性の枠組みの中では、どうしても個を明確にせねばならないという枷に嵌ってしまう。
ミシェル・フーコーがこのことに気付いた西欧で最初の人であるならば慧眼であろうが、先人がいる。インド・ヨーロッパ語族として同じ言語体系に属するインドで生まれた仏教、仏典の中の 「長老ナーガセーナへの問い」 の中であったろうか?その中に、自己を空無化する回答が記述されていたのを覚えている。
もっとも、この本の著者はカトリック教会の牧師さんなので、例え仏典の中のこの記述を知っていたとしても、ゆめゆめそれを引き合いに出す訳にはゆかなかったのであろうが・・・。
【日本語の特質を生かした日本であれ】
日本人=日本語である。日本の国力の根源は日本語にある。
ケネディー政権下の国務長官・ブレジンスキーであったかが、日本を 「ひ弱な花」 と例えたとか。日本語以外の言語民族からすれば、なるほど、そう言う表現が当て嵌るように見えるであろう。しかし、それはあくまでも向こうの尺度で見た場合である。日本は決して 「ひ弱な花」 などではない。
日本語の特質が、謙虚さと自己主張せぬ慎みを日本人に付与してきたのである。
外交上あるいは交渉上の能力は、それを必要とする政治家や経済人が身につけていればよいのではないか。
日本人の全てが和歌や小説を通じて日本語に親しむことなく、
日本人の全てが幼少期から英語を習い、
日本人の全てがディベート能力に長けてしまい、
日本人全てがアイデンティティというような言葉に違和感を感じなくなってしまうようなら、
その時こそ日本最大の危機である。
<了>