色んな思いや考え方などを発信すると、時に勘違いをされる事がある。
常々、インターネット上で見える個人の人柄や考え方、言い分や気持ち、行動などは、あくまでもその人の一部分であり、氷山の一角だと思っている。
見せたくないところは表現されないし、語り出すと長く長くなる事を、結論だけ書いているのかもしれない。
それでも時々表面上だけ見て、誤解されることもある。
誤解が怖くて何も書かない、というのも選択の1つ。
実際、私自身、言葉にすると微妙に本質からはズレて行き、さらにそれを聞いた相手は、相手の「知っている」感覚に当てはめて受け取る為に、本来伝えたかったこととはかなりズレてしまう、という事がたくさんあった。
誤解された上に、たくさん話したから、と違う解釈になっているのに分かった顔されて、心底がっかりした事がある。
それによって詳細な想いや感覚を話さなくなった時期がある。
何も話さなかった時よりも、話した上で誤解されると、さらに強固な誤解が生まれるから。
本当はそうではない結論になり、あれだけ話したのだからかなり理解した(はず)、と相手は思う。
その時の私の心の後ろにあった想いはこうだ。
どうせ誰にも理解されない
だから話しても無駄だ
その想いはいつもどこかで寂しさを感じる事になり、孤独感も抱える事になった。
そんな気持ちを持っていた頃、私にとって世の中はサバイバルだった。
思えば人当たりもキツかったなぁと思う。
分かりやすく発信をした事で誤解を受けて、人が離れていった事がある。
その時の文章がこのブログに残っている。
これを読んだ中で、知人以上友達未満の人が分かりやすく離れていった。
水面下ではもっとたくさんいたんじゃないかな?と思う。
そこには私の心の奥の想いは書いていない。
ただ結論を書いているだけだ。
細かく話せばかなり長くなる事と、その時に書きたかった意図は別のところにあったから、結論だけにまとめる形をとった。
ただ、そう結論を持っている背景には、私なりの想いと感覚がある事は漂わせていたけれど。
これは、私が発信をして、誰かに何かの結論を出された話だけれど、何も相手に限ったことではない。
立場はいつでも逆転する可能性がある。
無意識のうちに、きっと私も何処かの誰かの事をわずかに見聞きしただけで、知ったつもりになっている事があるだろう。
そして、あらためて思う。
誰かの行動や言葉、発信などを見聞きして、なんだかなぁと思う事があった時、そこからなんか大きな反応をする時は、きっと反応している側に何か種があるよ、って事なんだと思う。
ある時に、話しても無駄だと思っていたけれど、いつしか、ただ話を聞いてくれる人が周りに増えていた。
それはこういう事だね?
そう言うってことはこう言うこと
ああ、◯◯って話だね
などと、自分の知覚の範囲で決めつけず、ただ話を聞いてくれる人が。
そして、振り返ると、私もいつの頃からか人の話を聞く時は、聞き慣れていたり知っている感覚の話をしている気がしても、それはどう言うこと?と、その人の言葉で話してもらうようになってた。
例えその話の感覚が、私にはあまり分からなくても、それはそれ、と言うところで聞くようになってた。
分かろうとしない、分からなくてもいい、って意味じゃないんだけど。
理解はしても分からない部分があっても、それはそれでいいと言うか。
ただそうなんだな、と受け取るだけでもいいと言うか。
時に、どう考えても感じても、1つの結論以外見つからない事もあるんだけど、相手がある事に関しては、私の感じるそれだけが全てではないから、思いもよらぬ種が、もしかしたらあるのかもしれない、と。
そんな風にグレーをグレーとして残せるようになってた。
この話のオチはどこに来るのか分からないけど(笑)、まぁ誤解されやすいと感じる時は、きっと自分も人のことを誤解している事が多いのではないかな?
そして、端的に結論を出される事があったとしても、相手にも余裕が無いと言う事情があったのかもしれないし、それで一時期遠くなっても、また縁があれば近寄るんだろうから。
それはそれで、のんびり眺めていたらいいのかもしれないね。
そんなことをつらつら思う日曜日の夜


