昨日、下書きと間違えて公開してしまいましたw
未完成記事でお目汚し失礼いたしました。
書きそびれていた夏のお話。
開成町に紫陽花を見に行った帰りに、小田原から数駅の栢山駅に寄りました。
*読みは"カヤマ"
そこには神奈川が誇る偉人、二宮尊徳(二宮金次郎)の生家と記念館があります。
栢山駅から徒歩で15分程です。
◆尊徳記念館・二宮尊徳生家◆
昭和30年(1955)、二宮尊徳生家跡地に隣接して建てられた、宿舎や食堂も備えた資料館兼教育施設。
二宮尊徳先生 回村像
二宮尊徳の名は誰もが知るところですが、どんな人物だったか?となると、薪を背負いながら勉強をしている銅像が浮かぶ程度かも?
恥ずかしながら、私もそうでした。
が、この記念館で二宮尊徳の偉業を知り、己の無知を恥じつつ、その偉業の数々をもっと世に広めるべきではと思いました。
"教えと考え"は人としての普遍的な美学。
二宮尊徳はここで農家の息子として生まれます。
暮らし振りは悪くなかったそうですが、酒匂川の大洪水で田畑は流されて家屋も被災し、その後、父が亡くなり、一家は離散…
二宮尊徳生家
(神奈川県指定重要文化財)
天明7年(1787)、二宮尊徳はこの家で産まれ、一家離散となる16歳まで暮らしました。
家屋は寛保2年(1742)頃の築造。
二宮家が離散した後に売却、西栢山に移築されましたが、昭和34年(1959)に持ち主から寄贈を受けて、元の地に移築復元されました。
土間から続く板敷の座敷。
江戸時代中期の中流農家の典型的造りです。
二宮尊徳を崇敬する実業家も多く、かの真珠王、御木本幸吉もその一人。
石塀は御木本幸吉の寄贈です。
貧富訓
思想家としても知られる二宮尊徳。
遊楽は分相応に、勤労は分相応外に…それが貧富を分けるという教えが刻まれています。
それでは、記念館に入館。
*展示室観覧料¥200
二宮尊徳の生涯が模型や動画で学べます。
獄暑の夕方、観覧者は私だけ。
"30分程時間があれば"と、解説員の方が声を掛けてくれたので、解説をお願いしました。
これが大正解。
とても詳しく熱心に、尊徳愛に溢れた解説を楽しませてもらいました。
一家離散後、尊徳は叔父に引き取られます。
行燈の灯りで本を読んでいると、油が勿体無いと叔父に叱責されたそうです。
そこで尊徳がどうしたか?
近所の人から油菜の種をもらい栽培し、自家製の油で灯りを灯して勉強を続けたそうです。
また、畦道に捨てられる植え残りの"捨て苗"を拾っては集め、洪水でダメになった田畑を耕し直して、米1俵余りの収穫を得たそうです。
苦境に負けず、早くも才能を発揮ですね。
2年程で叔父の家を出て、二宮家を建て直すと、今度は奉公に出た先の小田原藩家老・服部家の財政再建を実現し、31歳の時に藩から表彰を受けます。
新規に開墾した田畑は一定年数、年貢が免除されていた為、ひたすら開拓をして農地を広げていったそうです。
その実績から、藩主家の分家、桜町領(現栃木県真岡市)の復興を依頼されます。
ところが、代官や農民と対立してしまい、尊徳は突如、成田山に籠ってしまったそうです。
21日間の断食修行をしたそうです。
困った農民が尊徳を迎えに行き、その後、10年を掛けて復興を成功させます。
その後も飢饉に苦しむ領民の救済の為に、小田原城の米蔵の米を充てさせたり、報徳堀と呼ばれる排水路を作り、田畑を改良していくなどの改革も進めていきます。
また、家の茅葺屋根部分を川底に沈めてから堰を作るなど、独自の方法で農政改革を進めました。
こういった尊徳の手法は"報徳仕法"と呼ばれ、経世家・農政家・思想家として名を馳せます。
晩年、日光領の復興を命じられますが、事業半ばで病に倒れ、69歳の生涯を閉じました。
気付けば、閉館時間の16時。
今までと同じ事をただ続けるのではなく、独創的で革新的な農政に取り組んできた尊徳。
その偉業から見える姿は、時代の先をゆく実業家の様にも映りました。
老朽化や価値観の変化により、撤去が進む二宮尊徳像ですが、これを機に大人の二宮尊徳の偉業にもっと目を向けて欲しいものです。
駅までの帰り道、なんとなく脇道に逸れてみたら、素敵な光景に出会いました。
田んぼ越しの富士山。
そして、その間を走るロマンスカーの図。
ご当地マンホール
すいすいとメダカたち。
以上、
神奈川が誇る偉人の軌跡でした。



















