エゴとは、自己主張するという絶え間ない運動そのものです。

自転車がペダルを漕ぎ続けなければ倒れてしまうのと同じように、エゴは、私は怒っている、私は正しい、私は悲しい、と絶えず反応し、対象との間に摩擦を生み出し続けなければ、その存在を維持することができません。

もし、あなたが一切の自己主張をやめ、過去の記憶も未来の期待も持たずに完全に沈黙したならば?まさしくエゴが恐れているのは、外部の敵ではなく、自分自身が活動を停止することによる完全な死です。 

だからこそ、エゴはあなたをそそのかし、絶え間なく何かを求めさせ、考えさせ、悩ませ、自己主張という名の自転車のペダルを永遠に漕がせようと強迫します。

例えば、人は、怒り狂っている最中、心の中で何が起きているかといえば、「あいつが悪いから私は怒っているのだ」「私には正当に怒る権利がある」「どうやってこの怒りを相手に思い知らせてやろうか」という、猛烈な自己正当化と他者への攻撃のストーリーが渦巻いています。

「被害者としての私」や「正義の執行者としての私」というエゴのシナリオに酔いしれ、その感情のドラマを貪り食っている状態です。

この「ストーリーを楽しむ私」がいる時点であなたの「感情」は、「エゴが自己を主張し、強化するための便利な道具」に成り下がっています。 

人が怒りに飲まれているとき、思考は「この怒りをどう表現するか、あるいはどう抑え込むか」と絶え間なく活動し、怒りという感情を操作しようと企ててる、これが「思考」と「感情」の分離です。

精神的な学びを何もしてない人が怒りを長引かせ、疲弊するのは、分離した「私」が怒りに薪(思考のストーリー)をくべ続けているからです。

「精神的な学びという教養」を身につける必要がある理由がここにあります。これらのことを知らなければ、人は何十年も前の怒りも握りつづけることができるでしょう。その結果、その種が発芽し病気や問題としていまになって顕在化するのです。(つづく)