昨日は、炎天下、草刈りをしました。ハンマーナイフという回転刃と車輪のついた農機を押しながら草を刈るのですが、管理しなければならない土地が広いので、2時間費やしてもまだ残りが7~8倍あります。退院後、息が上がってふらふらして30分で作業終了しましたが、少しずつ体力が回復してきました。それでも、終わりにする頃は、足がふらつくので、よちよち歩きをしながら家に戻ります。

私の家にはこのように管理しなければならない農地や山林が結構あります。そのほとんどすべてを耕作放棄していますので、農作物の代わりに雑草が生えてきて周りの田んぼや畑耕作者に迷惑をかけるので、放置しておくわけにもいきません。

私の家は、近所からは「隠居家」と呼ばれていて、何十代も続く大家から分家しています。私は、7代目ですので、6代前の先祖が、現在の家屋敷のある場所に居を構えました。その際には、家屋敷だけを譲ってもらったので、こんなに多くの土地はなかったはずです。

かつては、戦前になりますが、今の十倍以上の土地が私の家の名義だったというので、この辺りでは知られた地主でした。しかし、敗戦後の農地解放で、そのほとんどが没収されて小作人に分譲されたので、家屋敷続きの土地と山林が残されました。

私が、自分のアイデンティティについて考える時、このことが最大の謎でした。元々、大家から家屋敷となる土地を分け与えられただけなのに、どうして地主となったのか。

私の家のルーツについては、以下に書きました。

 


ここから抜粋添付します(青)。

私から数えて5代前の先祖は、桜田門外の変に参加しているということです。桜田門外の変とは、1860年(万延元年)水戸藩浪士17名と薩摩藩浪士1名による18名の襲撃で、江戸城登城途中だった大老井伊直弼を討ち取った事件。その際、実は、18名以外にも補助メンバーがいました。私の先祖はこの先陣が打ち損じた場合の予備隊として甘酒屋に身を潜めて経緯を伺っていましたが、襲撃が成功したため、幕府の捕縛から逃走して中山道を西に向かって身を潜め、さらに、現在の私の住む山村に身を隠しました。

我が家に伝わる水戸藩脱藩浪士の話は、家の近くにその墓があることから噂話としては聞いたことがありました。祖父の親は早逝したためその経緯が正しく伝わっておらず、曲解された不明な事実としてその話は残されていたのですが、明治以降残されている戸籍を全て調べてみると、その事実を確認できました。

幕府による厳しい追求があったのでしょう。明治22年になってから改名する等してその事実を封印して、以来、時代の変化とともにこの話は消え去って根拠不明な噂話となったようです。

その先祖は、当時34歳、水戸藩を脱藩して、「尊皇攘夷」という正義のために命を懸けました。さらに、その4年後の天狗党の乱で、水戸藩尊王攘夷派、最後の最後まで攘夷実行を志した幕府最強の集団は悉く処刑されてしまいます。身を隠して生き延びたもの、仲間達の無残な最期をどのような気持ちで耐え忍んだのか、その無念さを思いやることができます。その5年後、明治3年、44歳で10歳の跡継ぎを残して早逝。おそらく病死だったでしょう。

当時、幕府倒幕の大義名分の下に在日の李族が長州薩摩を動かして明治となりました。孝明天皇は暗殺され(処刑されたという説もあるが)、「尊皇攘夷」から「開国」へ。在日李一族による乗っ取り、そのニセモノ革命ぶりに対して、自らの命を懸けた大義と折り合いを付けることはできなかったでしょう。


この事実を確認すると同時に、体中の関節が痛むリウマチ症状が始まり、その延長線上に現在の身体状況があります。それは、2001年911同時多発テロが自作自演であると気づき、私たちの与り知らぬ強力な意思が世界を動かしているということを知って目覚めた時でもありました。

 

この水戸浪士が幕府の追跡から身を隠して私の家のすぐ近くにある、当時「名主」であった家に世話になり、その家の娘と結婚します。婿に入らずに「中野」という姓で所帯を持って私の家のすぐ裏に居を構えていたそうです。

私の5代前の先祖、つまり、大家から隠居してきた夫婦の子供は、この水戸浪士とほぼ同世代であったため、仲良くなり、同志として近所にあった寺子屋で学問や剣術を学び教えていました。肝胆相照らす仲であったと聞いています。

ところが、この5代前の先祖の妻とこの水戸浪士との間に子供ができてしまいました。この5代前の先祖は妻が寝取られたことを知っていたと思われます。

では、なぜそれを許したのか? ということです。

このことについて述べる前に、水戸藩脱藩浪士による「天狗党の乱」で無残な最期を遂げた人々の無念さを等閑(なおざり)にするわけにはいきません。

幕府最後の最強軍団となった水戸藩脱藩浪士は、一途に忠義を尽くした徳川慶喜からの討伐命令によって、賊軍とされて処刑されます。福井県敦賀市に松原神社がありますが、その付近にあったニシン小屋のような劣悪極まる所に監禁されて、多くが病死し、生き残った353人が処刑されました。

私は、この353人の慰霊が祀られているこの松原神社に行き、慰霊碑の前で黙想しながら般若心経を唱えたのですが、その頃から関節に激痛が走るようになりリウマチ症状が出始めました。「攘夷」を打ち砕かれて惨殺された彼らの無念さと感応してしまい、それが激痛となった原因の一つです。この無念さは、太平洋戦争で散華した特攻の若者たちや広島・長崎の原爆地上爆破で虐殺された人々の無念さに通ずるものです。

話を戻しますが、この水戸浪士は、天狗党の乱に参加しませんでしたが、水戸にはその縁者や同志がいました。

ここからは、私の推測ですが、天狗党の乱の後、水戸藩では、親幕府派と反幕府派が争って殺し合いをする中で、この水戸浪士の親族や同志は水戸に居住できなくなったので、その財産(貨幣)をこの逃亡した水戸浪士に託したであろうということです。

しかし、この水戸浪士は、明治3年に死去しており、その時、水戸浪士と5代前先祖との間にできた子供は9歳。そこで、水戸浪士縁者や同志は、この貨幣を持参しながら水戸とこの地を行き来しては、この幼い跡取りの養育をしたのでしょう。戸籍上には、養育係りのような人がいた形跡があって同居していた可能性があります。そして、土地を購入して財産を増やす中で、妻を寝取られた5代前の先祖は、懐柔されていったでしょう。

明治22年、5代前先祖が死去すると、この水戸浪士との間にできた子供に家を継がせるために、5代前の先祖と妻の間の子供は養子に出されています。そして、家を継いだ子供、つまり、水戸浪士と5代前先祖の妻の子供が、戸籍上では、私の4代前の先祖となりました。姓は「中野」ではなく元のまま、名前は養子に出された子供と同音異語の名前に変えて。

水戸脱藩浪士と5代前妻との愛の物語の中にあって、そのストーリーが有耶無耶にされていましたが、私が、ここに隠されていたことを解明しました。そして、最も重要なことは、寝取られた5代前の先祖と養子に出された子供の無念さを疎かにしてはいけないということです。

7月15日の記事、

 


ここで、「ありがとう」と言えたのは、以上、述べたことと併せて、ここでは言えないもう一つの物語に対して、点と点がつながったからです。

目覚めるということは、私のハイヤーセルフに通ずる、霊的な物語、残されたままになっていた感情を受容することであると痛感しています。その重さを支えきれなくなると、体が壊れたり、病気になったりして、気づくように導かれます。

私は幸運にも生かされて、楽しく生きる人生を継続しています。

 



昨日は、草刈りでへとへとになったので、温泉に行ってきました。いつものお気に入りの山奥にある温泉ではなく、近い所にある鄙びた温泉施設です。最近は、混みあうことはほとんどなく、露天風呂は大体貸し切り状態です。

湯音が少々高いので、湯あたりする前に露天風呂の縁に仰向けになって涼みます。涼しい風が最高に心地よいのですが、昨日は、カジカガエルが鳴きました。

こんな声です。

 


蛙(かはづ)は、古来、和歌に出てきます。たとえば、『古今和歌集』の仮名序に「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。」とあります。

この「かはづ」の鳴き声は、このカジカガエルの声のことです。

露天風呂の縁で素っ裸で仰向けになって聞く、この美しい声でまさに「極楽」です。

カジカガエルが鳴くと夏本番です。この夏は、心が躍ることが続く予感がしています。「青い夜明け」を楽しみます。



私にとって、トランプ革命は、ある意味、幕末尊王攘夷の続きをしているような感覚もあります。

以下参照。