日々の変化と変容が早すぎて

もはや文字を綴るのが追いつかないので

何か考えます。

 

 

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創造主とは何か。

 

 

誰もが一度はこう考えたことがあるだろう。

 

 

「創造主だったら、私の思い通りに世界は創れるはず」

「創造主なはずなのに、なぜできないんだろう?」

 

 

創造主でありながら

個体という肉体の視点を持つ私たちは

たびたび、この混乱する思考に巻き込まれる。

 

 

どうやって意識を使えばいいのか。

どうやって現実創造すればいいのか。

 

 

この「現実創造」という言葉が

どうにもしっくりこなくなったのは

去年くらいからだった。

 

 

 

何か特定の事柄に対し

自我が満足する形

この現実に「あらわれ」ること。

それが現実創造。

 

 

しかし、である。

 

現実は幻であり

過去の思考の結果に過ぎないのに

なぜ、そこを「創る」という発想になるのか?

 

 

この

「現実を、創る」という言葉が

何かを異様なスピードで収縮させているのだ。

 

「願望実現」も同類である。

 

 

その正体は分からなかった。

しかし、この言葉以外で表現する術がないので

やむなく、これを使っていた。

 

 

この頃、講座に参加してくれた人たちは

私がしきりに「現実創造って言葉使いたくないんだよね」と

言っていたのを覚えているかもしれない。

 

 

 

そして

「すでにある」論が、その境目を崩壊させた。

 

認識できたら叶っている、という視点が

現実化をゴールにしなくていい、という認識をくれる。

 

 

前述したが

所有の概念が変わったのだ。

 

 

 

となると

ますます、創造主とは何か?という問いが強まっていた。

 

 

なぜなら、

私の解釈では

この段階でも

創造するという「行為」が残っているからだ。

 

 

私が考えている創造主は

ものすごく、狭い範囲なのではないか?

 

もしかしたら、創造主という視点を

何か取り違えているのではないか?

 

 

そんな問いを抱えながらも

私は、去年大変だったことを踏まえて

 

自分のビジネスを事業化しようと

準備を進めていた。

 

 

自分がいなくても事業が回るように。

自分が稼働しなくても、お金が入ってくるように。

 

 

そうしたらまた

家族や大切な人に何かが起きても

いつでも私が駆けつけられる。

 

 

この思考の流れは、人間的に見たらごく自然なことだと思う。

 

 

しかしこれは、 今となっては

予想以上にとんでもないことだった。

 

 

私の父は事業をやっている。

 

そのおかげもあり

両親がお金に困るようなことは

少なくとも、過去に一度も発生していない。

 

だから私が何か責任を負うようなことを

やろうとしていること自体、おかしいのだ。

 

この件は別記事で詳しく書く。

 

 

 

そしてなぜ、私がこういう思考にすぐ陥るのか。

その理由もわかったのである。

 

 

 

 

 

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時は遡って

 

今年の1月、日本武道館に立った時

Happyちゃんにバッタリ再会した。

 

 
3年ぶりの再会。
 
 
この時は発信は読んでいなくて
時々、周りから
彼女の活躍を耳にしていて
 
「ほほー、相変わらずすごいなぁ♫」くらいの
認識だった。
 
 
しかしこの時、
Happyちゃんはなぜか
「今年もよろしくね❤️」と言ったのだ。
 
 
社交辞令か?と思ったが
そんなくだらんことを彼女が言うはずがない。
 
 
 

そうなのだ。

 

すごい伏線回収で、

私は3度目の「原点回帰」まで

一気に連れていかれたのだった。