こんばんは♫ぜっきーです。
昨日は
私たちが疑いもせず
「事実」だと思っている
「ない」「足りない」
という認識は、
果たして本当なのか?
ということについて書きました。
私は長年、
「すでにある」という理論のほうを
どうにか紐解こうとしていました。
目の前にないのに
どうして「ある」と言えるのか。
まだ手に入れていないのに
どうして「すでにある」になるのか。
しかし、
「それは、本当にありますか?」
という問いを投げかけられたことで
私が
「ある」「ない」と呼んでいたものは
絶対的で普遍的な事実ではなく
自分が無意識に引いた
境界線によって
決められていたのではないか?
そんな大きな転換点を迎えたわけです。
では私たちは一体、
どこに境目を引いているのだろうか?
無意識に
「ある」「ない」を決めている
基準は何なのか。
そのひとつが、
「所有という認識」です。
私たちは
「あるかどうか」を考える時、
真っ先に
「自分が持っているかどうか」
を確認します。
もっと言うと、
「ある」の証拠として
ほぼ瞬間的に
「自分のものになっているかどうか」
を確認するのです。
私の手元にある。
私の家にある。
私の口座にある。
私が受け取っている。
私が経験している。
私が買った。
私がもらった。
私のもの。
「すでにある」と言われた時も、
自我は真っ先に
「私の手元にあるの?」
「私の口座に入っているの?」
「私のものなの?」
「私はもう体験しているの?」
「私が持っているの?」
と、確認します。
そして、
その認識に当てはまらなければ
「ほら。やっぱり、ないじゃん(チッ)」
となるわけですね。
自我の中では、
「ある」と
「私が所有している」が
ほぼ同じ意味として
扱われているのです。
↑
ここ重要ポイントね。
反対に、
「私が所有していない」
という認識が入ると、
「私には、ない」
という判定がされるわけです。
例えば、
あなたが欲しいバッグを
Aさんが持っていたとします。
自我は、
「そのバッグはAさんのものだ」
と認識する。
つまり、
自分のものにはなっていない。
だから、
「私には、ない」
この時、自我が見ているのは
そのバッグが「あるかどうか」ではなく
「私のものかどうか」です。
「え?
そんなの当たり前じゃん。
ぜっきーさん何言ってんの?」
そう思うのも
無理はないのだよ、明智くん(誰だ・笑)。
私たちは普段から、
自分が所有しているものと
他人が所有しているものを区別して
生活している。
誰かのバッグを
自分のバッグだと思い込むわけにはいかないし、
誰かのお金を
自分のお金として使うわけにもいかない(笑)。
もちろん、
持っていないものを
持っていると思い込みましょう、
というアホみたいな話ではありません(笑)。
では、ここで少し
別の角度から見てみましょう。
私たちは普段、
今この瞬間
手で触れていないものも、
目の前に見えていないものも、
普通に「ある」と認識しています。
銀行口座にあるお金を
一枚一枚
目の前に並べなくても
通帳に記載された
残高の数字を見て
「私にはお金がある」と思っている。
今、職場にいなくても
休みの日でも
「私には仕事がある」と思っている。
友人や家族が
今、目の前にいなくても
存在していると認識している。
パートナーも、
いつも目の前にいないと
付き合ってるとは認めません!
なんて、
ストーカーみたいなことは
言わないわけだよね(笑)。
デートして家に帰るたびに、
「今は目の前にいないから
私にパートナーがいるかわかりません」
とは、ならないよね(笑)。
私たちは、
過去の記憶や
LINEのやりとり
約束や記録など
さまざまな「データ」をもとに
今ここには見えていなくても
「ある」と認識しています。
電波やWi-Fiのように、
目には見えなくても
働いていると認めているものもある。
自分が知らない土地や
会ったことのない人も、
世界には存在していると
普通に、認めています。
私たちは普段
私が今、見ていない。
私が今、触れていない。
私が持っていない。
私が知らない。
ということを理由に
それは存在しない、とは言わない。
言ってないんです。
ここ、めっちゃ大事!!!
つまり私たちは普段から、
今、目の前に見えていること「だけ」を
「ある」の条件にしているわけではないのです。
ところがこれが、
どっこいどどんちょ!!
(通じる人いるんだろうか・笑)
自分が欲しいもの。
叶えたいこと。
願いや望み。
そういうものに対してだけは、
なぜか急に
判定がめっちゃ厳しくなります(笑)。
まだ私の手元にないでしょ。
まだ私の口座に入っていないでしょ。
まだ私が選ばれていないでしょ。
まだ私に起きていないでしょ。
まだ私の現実になっていないでしょ。
だから、
「ない」
「ない」の!!!!
自我はそうやって
叫び続けているのです。
そして
「どうやったら私のものにできるのか」
「どうやったら手に入るのか」
「どうやったら私の現実にできるのか」
過去のデータしか入っていない
思考というエゴで、
延々と考え続けます。
だから、ループする。
だから、難しくなる。
私たちは、自分の望みに対して
「ある」「ない」を判断する時
私が持っているのか。
私のものになっているのか。
私が使えるのか。
私が受け取ったのか。
という
「所有の判定」を入れ込んでしまうのです。
そして、
私が所有していない。
私のものではない。
だから、
「ない」としてしまう。
これが、自我の矛盾。
巧妙な仕組み、とも言えます。
存在と所有。
このふたつを
無意識に同じものとして扱うことと、
三次元特有の
「私」と「私以外」を分ける意識。
それが入り込むことで、
自分がまだ持っていないものを見るたびに、
「あの人には、ある」
「私には、ない」
という解釈が生まれ続けるのです。
でも、
「ある」と
「私が持っている」は、
実は、同じではない。
何かが「ある」ために、
「私」が持っている必要はない。
「私」の名前がついている必要もない。
「私」の手元に届いている必要もない。
「私」が使える状態になっている必要もない。
世界に存在することと、
私という個体が
それを所有することは、
別の話です。
ここまで読んで
自我が激しく抵抗して
「いや!!世界に存在するのはわかってるよ。
でも、私のものにしたいんです!!」と
叫んでいることでしょう。
落ち着け(笑)。
まずこの
「私が持っていない。
だから、存在していない」
という理屈は、
成立しない、ということが
わかっていないと
次に行けないのよ❤️
所有を
「ある」の絶対条件から外した時、
今までとは少し違う景色が
見え始めます。
さて、ここで問う。
あなたが今
「ない」と思っているものは、
本当に
世界に存在していないのでしょうか?
そして反対に。
あなたが今
「ある」と思っているものは
本当に
誰が見ても変わらない
絶対的な「ある」なのでしょうか?
現実は
私たちが思っているより
ずっと、柔らかい。
ますます面白くなってきますよー。
次は
「目の前にない」という判定について
さらに紐解いていきます。
ここでいよいよ
東京ディズニーランドが登場します(笑)。
まだまだ、続くよ♫
それではみなさま、
今宵も素敵な夜を♫



