こんにちは。
10月13日はチョコリーナの命日でした。
実家で飼われていた子です。
あみが生まれる12年前、今から26年前の1996年、まだ4歳のとき事故で早世しました。
悲しいお別れで、当時の我が家は生活がペットファーストではなかったから、いろいろ今思うとかわいそうで、心残りになり長年の心の傷でした。
動物はたくさん飼ってきて亡くなれば、
もちろんその都度可哀想という気持ちはあったし、今でも思うとつらくなる気持ちは全員に対してありますが、
泣いて暮らすというと表現がふさわしいかわからないけど、いわゆるペットロスの状態で苦しんだのはチョコの時が初めてでした。
会えなくて寂しすぎて、また不憫でならず、
なぜかその時強く思ったのは、ミックス犬は飼わない
今後は純血種の犬がいい
ということ。
今はそんなこと思いません
悲しすぎて偏った考えになってました。
純血種で見た目は似た子でも、その子は違う子なので、例えばあみと似たルックスのチワワがあみの穴を完全に埋めてくれるとは思わないので。
機が熟したときご縁のある子が次の子と思います。
たとえそれがチワワじゃなくても猫でも鳥でも。
その日は永遠に来ないかもしれないです。
自分の環境が整わないと無理なので。
当時は、似た子に会いたいけど、チョコリーナはよくわからないミックス犬(ダックス×ヨーキー×?)だったから、
同じ見た目の子は世界中探してもいない特別な子
と思って、そんな偏った思想になってました。
こんなかわいい犬はいないと思ってました。
チョコは私が飼ってたこじゃなくて、私のいない間に家族が買い始めた子で、小型犬飼うのは初めてで知らせを聞いたときわくわくした気持ちになったこと覚えています。
ある人の家庭の事情で飼えなくなったチョコリーナ、別の家で飼われていたけど、そこの人もいらなくて我が家(実家)に来たようです。
元の飼い主さんは泣く泣く手放したため、チョコが亡くなった時お葬式に呼んだら駆けつけとても泣いてました。
私の気持ちを助けるためにチョコリーナがあみに生まれ変わって来てくれたと思ってます。
去年書いた記事。
長い話になります。
抱っこされてる表情もどことなく似てる二人。
あみのほうが一回り小さいです。
チョコは私の部屋で、あみは浅間大滝での写真。
あみのほうが不安そうな顔してますが、これは水が苦手で滝に怯えているのかと思います。
チョコのほうが性格は臆病でした。

これも去年の回想です。
私の家族は、、、私が26年前のことに感傷的になって引きずりながら生きてると思ってるみたいで、ネガティブにとらえて、こういう行動してることがあまり理解されません。
可哀想という思って弔ってると思われて、こういう行動によって責められてる思いになるのかも。
命日がどうとか、全く未来を見ず過去に生きている辛気臭い人だと思われているのかもしれません。
死んだ子は帰らないから嘆いても仕方ない。。。
そんな感じなのか。
違うんですよね。
初めてチョコリーナの命日の催しを持ったことも、あみの死がきっかけで、それまでどの子の命日も何もしないできて、
あみが仏性(ぶっしょう)を高めてくれたから自分の中に育ってきた心を大切にしたいと思うのです。
仏性、日常生活では聞き慣れぬ言葉ですが「衆生が持つ仏としての本質、仏となるための原因」のことです。
立派派すぎて大袈裟かなと思うのですが、ちょうどいい言葉が見つかりません。
仏様を信じる気持ちや慈愛の心が以前より深まった感覚です。
もちろん、今の私は「浄土」の存在を信じてますし、精神世界では浄土へも近づいたと思っています。
チョコリーナやあみが一生を通して教えてくれたから。
なくなってからも奇跡を見せてくれたから、
信じる気持ちが強くなったのです。
全ての出来事、悲しいお別れ含め、みんな意味があること、私の糧になる出来事と思います。
なので、私が命日に念仏を唱えていたとしても、それは懺悔とか後悔とかとは違ってて、
感謝の気持ちなのです。ってこと。
灌仏会(お釈迦様の誕生日の催し)や報恩講(親鸞聖人の命日の催し)みたいな。
死んだとき「もっと○○してあげたら良かった」を思いたくなくて、できる限りのものを与えたから、あみに対しては喪失感のみ、ほとんど後悔やネガティブな感情はなくて、
あみの人生を通してチョコリーナにも報いることができていたと思うと、
二人には感謝せずにはいられないのです

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