昔: 砂むら元まん
ここ(元八幡)は深川の富岡八幡宮の元宮として、また、砂村総鎮守が祀られていた所として広く知られていた。江戸湾を挟んで向こうは房総半島。中央やや下には防波堤、通行人と桜、右下にには元八幡宮の鳥居を配している。昔から由緒のある宮でもあったので、古風で雅やかな雰囲気を漂わせていたと思われる。
江戸でも屈指の古社ではあったが、江戸市中からはあまりに遠くまた洪水に見舞われる危険もあったことから寛永初期(1624年頃)に深川の地に移転、もとの跡地に八幡宮を勧請した。以降ここは元八幡と呼ばれている。この辺り一帯は、万治二年(1659年)越前出身の砂村新左衛門により新田開発が完成し、砂村新田と名付けられ砂村の地名が生まれました。
今: 永井荷風の『元八まん』を歩く🚶…写真番号⑧
広重が絵にした『砂むら元八まん』。絵から77年後、永井荷風も砂村を歩き、果てには偶然にこの元八まんに行き当たっている。時は昭和8年(1933年) 、荷風は54歳であった。
わたしも永井荷風の随筆『元八まん』を想いながら歩いてみました。
荷風の『元八まん』は、青空文庫(無料)に載っている。地名や名所に関わる部分をそのまま転載させていただきます。上の地図の写真番号順(ほぼ)に現在の姿をご覧ください。
…或日わたくしは洲崎から木場を歩みつくして、十間川にかかった新しい橋をわたった。橋の欄(てすり)には豊砂橋としてあった。橋向には広漠たる空地がひろがっていて…。
①洲崎神社と名残りの町並み
③東西に伸びる豊砂橋。自転車は橋を渡ろう(東進)としている。
…初めわたくしはほどなく荒川放水路の土手に達するつもりであったので………通りがかりの人に道を尋ねると、左へ行けばやがて堺川、右へ行けば直ぐに稲荷前の停留所へ出るのだというのである。
④ 仙気稲荷神社 ⑤堺川はバス停と公園にその名を留めていた。
…思うに、今日東陽公園先の運動場になっているあたりを歩いたのかも知れない。
荷風先生、今の東陽町駅から北へ歩き、そのあと④地点に進んだと思われる。
②今の東陽町駅前と日曹橋からの北の眺め
…ところどころ柱の太い茅葺屋根の農家であったらしいものが残っているので、むかしは稲や蓮の葉の波を打っていた処である事を知った。
⑥旧大石家住宅 「梁行が三間半、桁行が五間半、江戸時代の関東南部ないし江戸近郊農村における農家の母屋の姿」との説明。
…わたくしが砂町の南端に残っている元八幡宮の古祠(こし)を枯蘆(かれあし)のなかにたずね当てたのは全くの偶然であった。
…わたくしは朽廃した社殿の軒に辛くも「元八幡宮」という文字だけを読み得たばかり。境内の碑をさぐる事も出来ず、鳥居前の曲がった小道に、松風のさびしい音をききながら、もと来た一本道へと踵を回らした。
⑧元八幡宮と⑨富士塚「(天保四年までに作られた)30mほど北にあったものを移築。
…その後一年ほどたってから再び元八まんの祠を尋ねると……。
元八幡宮のことは『江戸名所図会』、『葛西史』、及び風俗画報『東京近郊名所図会』等の諸書に審らかである。
甲戍十二月記
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随筆では、下町の散策を主題とした『深川の散歩』『寺じまの記』『放水路』『向島』『向嶋』などの佳作を残している。東京のあちこちを盛んに歩いた永井荷風。『日和下駄』にはこんなことを記している。
「その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で呑気にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである。」
以上、お付き合いありがとうございました。















